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2020年12月 3日 (木)

太平洋戦争の記憶シリーズ第10号:南部仏印進駐とマレー進攻作戦

太平洋戦争は日本軍による昭和16年12月8日の真珠湾攻撃が端緒となったことは自明の理として知っていたけど、真珠湾攻撃と同じ日に並行して英領マレーに進攻し、イギリス軍の牙城シンガポールを落とす作戦が決行されていたことは今回初めて知った。

しかも、時間的には真珠湾攻撃より前に戦端が開かれていたということで、えっ?なんでこんな重大なこと今まで知らされてなかったんだろうと。もちろん真珠湾攻撃のインパクトが大きすぎるというのはあるんだろうけど、もっとクローズアップされてもいいんじゃないかと思う。

真珠湾攻撃が海軍主体であったのに対し、マレー侵攻は陸軍主体だったということだが、しかし補給路も戦線も伸びきってしまうようなリスクを抱えた何千キロも離れた南方の地になんで進攻しなければならなかったのか?

それは、昭和12年に開戦した日中戦争が長期化する中で、中国を支援するアメリカが昭和14年7月に日米通商航海条約を破棄し、日本への経済制裁を開始。それにより石油など多くの資源をアメリカからの輸入に頼っていた日本は大きな打撃を受け、日中戦争の遂行も困難となっていった。そんな中で出てきたのが、現在のインドネシアにあたるオランダ領東インド(蘭印)の油田をはじめとする東南アジアの資源確保を目指す「南進論」だった。

また、日中戦争で蔣介石率いる国民党政府に対し、仏領インドネシアや英領ビルマから物資兵器が送り込まれていて、この「援蔣ルート」の遮断も狙ってのことだった。

その足がかりとして目をつけたのが中華民国と国境を接する北部仏印(今のベトナム北部)だった。日本は昭和15年6月にドイツに降伏していたフランスのヴィシー政権と北部仏印への進駐を含む協定を結び、多少の小競り合いはあったものの9月には進駐を完了する。

しかし、これが米英の対日感情をさらに悪化させる事態となり、そこに輪をかけたように同月に日独伊三国同盟が締結されたことによりアメリカはさらに経済制裁を強化。

真綿で首を絞められていく日本は、昭和16年7月の御前会議で南部仏印進駐を決定。圧倒的軍事力をもとに7月末にはベトナム南部、ラオス、カンボジアを含む仏印全土を掌握した。

これに対し、アメリカは8月に石油全面禁輸という最終段階の経済制裁を発動。窮地に追い込まれた日本は対米戦争を決断するに至る。その中で、自前での資源確保が必至となった日本は、油田地帯がある蘭印攻略作戦を発動するが、その障害となるのがイギリスのアジア経営の拠点シンガポールがある英領マレー(今のマレーシア)だった。そこで米英開戦の緒戦に速攻でマレー作戦を実行に移したというわけだ。

こう見てくると、建前としてはアジアを植民地から解放するぞーと大東亜共栄圏を掲げたけど、本音は石油がないと日本滅びるぞーってことだったんだな。しかもこんな侵攻を米英が許すはずもないのに、なぜか日本の軍部には米英はキレないだろっていう楽観論が支配してたっていうんだから、ったくw

しかし、当時の新聞を見ると、“全マレー半島を制圧”、“全シ島の死命を制す”、“壮烈ブキテマ奪取戦”、“堂々世紀の大船団!今ぞ灼熱の南海を征く”、“ジョホール・バハル突入!待望の入城”などなど、目で見て読んでいくうちにスゲエな日本イケイケ日本!となる気持ちも分からんでもなくなってくる(笑)

いかに新聞メディアが戦争を煽り加担していたかが如実に分かって怖くなった。。

2015年12月21日 (月)

太平洋戦争の記憶シリーズ第9号:天皇機関説問題

歴史の授業で30秒くらい習って聞いたことがある程度の天皇機関説問題。しかし実はこれが日本を戦争に突っ走らせる一つの要素になったのだということはほとんど知らなかった。

では、そもそも天皇機関説問題とは何なのかというと、天皇の権力はどこまで及び、主権者は誰にあるのかという問題で、天皇の権力が国家および憲法の上に位置するというのが天皇主権説で、反対に天皇の権力は国家の下に位置するというのが天皇機関説だ。

つまり天皇主権説は、天皇は国家そのもので統治権は天皇にあり、意のままに国を動かすことができるという考え。

対する天皇機関説は、国家は議会・政府・憲法・国民など様々な機関からなる組織であり、天皇はその中で最高機関だが、あくまで一機関にすぎない。なので統治権は君主一身の利益のためではなく、全国家の利益のために実現するものなのでその権利は国家にあるとする考え。

いわば前者が絶対君主制で後者が立憲君主制といえるのだけど、しかし自分が学校で習った教科書には、大日本帝国憲法では天皇に主権があると定められ、と堂々と書いてあった記憶があり、今まで天皇主権説があの時代の常識だとおぼろげに思っていた。要するに天皇が政治に容易に参加あるいは介入できると思っていた。

が、どうやらそうではなかったらしい。

天皇機関説の方が学説の主流として定着していて、現実の政治も天皇を輔弼する(天皇が委任する)内閣が行政を、議会が立法を担う議院内閣制だったわけで、天皇が超法規的に憲法や法律を無視して行動したり介入することはほとんど出来なかったという。やれることといえば政府から上奏されてきたものに裁可のハンコを押すことだけ。要するに天皇は政治に容易に参加できるわけではなかった。

じゃあ、現実は天皇機関説/立憲君主制で動いていたのに、なぜ天皇主権説/絶対君主制との論争問題が生じたのかといえば、明治憲法第1条に「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」と天皇を絶対視しているのに、第4条では「天皇は国の元首にして統治権を総覧し、この憲法の条規によりこれを行う(天皇は国の元首だが、この憲法に従う)」と天皇の権力を制限していて、ここに矛盾が生じていることが大きい。

そして1番大きなポイントは、軍部が台頭してくる中で、「天皇は陸海軍を統帥す」とする憲法第11条を天皇主権説で解釈すれば、軍事に関する軍部の行動は政府にも議会にも干渉されずに独立して行うことができる(統帥権の独立)ので、軍部にとって天皇機関説は邪魔だったというわけだ。

さらに、昭和に入って政党政治が財閥や政治利権など特権階級にゴマをすって民衆から離れたところに向かっていき、1932年の五・一五事件でついに自滅。

そんな中で天皇絶対主義の思想が台頭。天皇親政による国家改造論が出てきて、1935年、議会で天皇機関説がやり玉に挙げられ、天皇機関説は反逆思想として排撃され葬り去られてしまう。そして1936年の二・二六事件で天皇絶対主義の国体論が大勢を占め、天皇機関説/立憲君主制による政治体制は骨抜きになってしまい、野放し状態になった軍部が実権を握り、誰にも止められない暴走が始まってしまうわけだ(政治体制が骨抜きになったといっても、内部行政は変わらず天皇機関説的な政治手続きで行われていた。要するに天皇という機関を軍部が押さえ込むことにより、軍部以外が天皇を利用できないようにした。まさに「君臨すれども統治せず」である)。

そして戦争が激化するにつれ、天皇絶対主義の思想は天皇のために命を捧げるという天皇忠誠の極致、一億玉砕の精神論へと昇華していき、その成れの果てが特攻である・・・。

歴史は繰り返すというけど、こうならないためには立憲主義による政党政治がしっかり機能していなければならないのだと思う。

さて、次は新聞記事で興味深かったところを。

まずは終戦詔書を受けての8月15日の朝日新聞の“再生の道は苛烈”という記事から。

“かつて敗戦の歴史を持たない国民にとって、それがなお現実感をもって迫ってこないのは無理もない。しかし日本国民にとって真の危険はこの時、この所に存する。情勢の見通しはどんなに厳しくても厳しすぎるということはない。敵が我々に骨の髄まで敗戦感を味わわせると提言してきた事実、また彼らが憎悪と復讐に燃えている事実を別としても、本州・四国・九州・北海道と若干の島嶼をもってしかも不具化された工業をもって、いかにして国民を養い、賠償を支払うべきかの一点を考えただけでも、我々の生は難く死は易しという言葉の意味を身に染みて感ずるのも決して遠い将来ではあるまい。

しかし、聖断すでに下った以上、国民の行くべき道はただ一つ。事ここに至ったについては、軍官民それぞれ言い分もあろう。だが今はいたずらに批判し、相互を傷つけるべき時期ではない。国内相克は分割統治という米英得意の戦法をわが国民に対して適用可能ならしめる事態をも発生せしめるかもしれないからである。現在は全国民が陛下の赤子たる本分に生き、かばい合う時ではないか。冷静と秩序の維持、これなくしては来るべき最も苛烈なる段階を切り抜けることは不可能であろう。

戦いにおいて敗れたりとはいえ、いやしくも我に自由なる魂ある以上、いかなる敵も我々を奴隷とすることはできないのだ。国体を護持し得るか否かは、敵の保障にかかるのではなく、実に日本国民の魂の持ち方いかんにかかる。特攻魂に端的に現れた七生報国の烈々たる気迫は、我々がこれを祖先より受け継いだものであるが、これは永劫に子孫に伝えねばならない。日本国民が果たしていつの日にか再生しうるかは、一に日本国民の魂がこの試練によっていかに鍛えられるかによって決まるのである。”

また、社説では、、

“おそらく今後幾年か、はたまた幾十年か並々ならぬ苦難の時代が続くことをあらかじめ覚悟してかからなければならない。しかし挙国一致、国体の護持を計り、神州の不滅を信じて冷静に事に当たるならば苦難の彼方に洋々たる前途が開け行くのである。

加えるに、被抑圧民族の解放、搾取なく隷従なき民族国家の再建を目指した大東亜宣言の真髄も、また我が国軍独自の特攻隊精神の発揮も、ともに大東亜戦争の経過中における栄誉ある収穫というべきであり、これらの精神こそは大戦の結末の如何に関わらず、永遠に特筆せらるべき我が国民性の美果としなければならない。かくてこれらの精神が新たなる国際情勢と新たなる国内情勢の下に、新装をもって生成していく時、未来はすでに我らのものといってよい。

一億の臣子、意義深き大詔を拝して覚えるところの感慨は筆舌につくしがたいものがあり、あるはただ自省自責の念慮のみである。君国の直面する事態について同胞相哭し、そして大君と天地神明とに対する申し訳なさで一杯である。一億同胞の新たなる努力も、ともにこの反省と悔悟とを越えて生まれ出るものでなければならない。”

まず印象として、反省してるようでしていないというか、要は天皇に対してこんなことになってすみませんでしたということであって、アジアなど外向けに対する反省じゃないし、なによりこの戦争は結果負けただけであって、理念や精神は正しかったと、栄誉あることだったとまで断言しているのは、戦争が終わったその日ということはあれど、全くもってあの軍国主義史観から脱していないことが見て取れる。

そして、8月15日から半月後の9月2日。米軍艦ミズーリで降伏文書に調印し、これをもって完全に終戦したわけだけど、その翌日の毎日新聞の社説を見てみる。

“さきに時局収拾に関する大詔が渙発されてから半月、停戦協定はきわめて平穏理に成立した。同協定は、帝国が連合国に対し完全に敗北した事実を政府の名において確認し、帝国に課せられた降伏条件を忠実に履行すべきことを確約した降伏文書である。我ら国民の感情としてはこれを正視するに忍びないものであるが、我らの祖国を再建するためには、冷静に大胆に敗戦と降伏の現実を直視し、これに対処するために最善の努力を払わねばならない。

日本および日本国民の行く手には物心両面においてまことに忍び難いような苦難が待ち構えているものと覚悟せねばならない。だが我らは文字通り石にかじりついてもこの苦難を克服せねばならない。日本及び日本国民の名誉にかけて連合国に対する降伏条件を完全に履行するばかりではなく、敗戦日本を世界最高の理想国家として再建するために、国民の全力を余すところなく傾注しなければならない。国体を護持し、正義と平和とを基盤として新日本の平和建設に邁進せねばならない。

我らはいかにその政治体制を改善し、いかに精神文化の向上を図り、いかに科学水準を上昇せしめるか。日本及び日本国民の進むべき道は一点の疑いを入れる余地がない。降伏条文の調印完了という事実は、かえって日本及び日本国民の平和建設への努力に拍車をかけるであろう。ただ、この平和建設への努力は、政府並びに一般指導層の明察と勇断とを必要とし、国民の努力はあくまで組織的かつ能率的なものに仕組まれねばならない。

国民の準備はできている。平和建設に対する政府当局の最善の努力を重ねて希求してやまない。”

半月で随分と印象が変わっていることに驚いてしまう。

「平和国家建設」、「日本及び日本国民」などそれまであまり使われてこなかった語句が頻繁に使われているし、政治体制を変えなければならない、つまり軍国主義から脱しなければならないと暗に言っていることは興味深い。ただ、国体護持、つまり皇室の安全と存続の保証だけは絶対守るべしという論は変わっておらず、天皇という存在がいかに絶対的だったのかが見て取れる。

さて、最後は新聞アラカルトコーナー♪

今回は、昭和10年2月26日の紙面に載っていた、乳美容液レートフードを絶賛発売中の平尾賛平商店さんの懸賞広告です。

“父のひげそり後に、母の隠し化粧に、姉のお化粧下地に、妹の通学整容料などなど用途の広い一瓶一家の重宝として有名な美容液の名は何でしょう?”というクイズの答えをハガキに書いて送ると、その中から抽選で豪華な賞品が当たるというもの。

1等賞が50名様で、ビクター名曲レコード(ベートーベンの「運命」または松永和風長唄)、子供服(年齢に合わせて調進)、腕時計、お召銘仙(平織の絹織物)、パーレットカメラ、お化粧セットから希望の品を。

2等賞が100名様で、ハイキング用具、パラソル、ランドセル、万年筆、初夏用ショール、置時計から希望の品を。

3等が1000名様で、安全カミソリ。4等が13850名様で、チョコレート。

何とも大盤振る舞いだね(笑)。しかも答案はお一人で何通でもお出しください。多いほど当選確率も多くなりますだってww昔からこんなことやってたんだね

2015年7月 8日 (水)

太平洋戦争の記憶シリーズ第8号:広島への原爆投下とポツダム宣言

200903_27_19_f0166919_21113825今号のトピックは昭和20年8月6日、広島への原爆投下だったけど、今回なにより1番興味があったのが新聞記事だった。

原爆について当時の新聞はどう伝えたのか、あるいは伝えなかったのか・・・。

すると意外にも大本営発表は翌日の8月7日、紙面に載ったのは2日後の8月8日と、日本にとって悪い情勢は隠し通し、情報操作することが常套手段だった大本営発表としてはかなり早い。しかもこじんまりとした見出しではあるものの一面トップだし、詳細は調査中としながらも“B29小数機で来襲攻撃”、“落下傘付き空中で破裂”、“人道を無視する残虐な新爆弾”と的確に伝えていて、日本にとって最後の一撃となった原爆投下がいかに衝撃的だったかが推測される。

また、終戦を伝える8月15日の毎日新聞には、理化学研究所の専門家が原子爆弾とはどのような原理のものなのか説明した詳細のほか、9日に広島に調査に入った記者の現地報告も載せられている。

中心地の近くに1台の電車が焼けた残骸のまま停まっていたが、遠目から見るとその中に人がずらりと並んでいる。奇妙な所で休息しているものだなと近寄ってみると、なんとこれは全て死体なのだった。走っている電車の中で突如新型爆弾の一閃を受け、その爆風をこうむった人々が、席に腰かけたまま、あるいは吊り革に下がったままの姿で折り重なっている・・・。

あの日、疎開建物の取り壊しに義勇隊や学生たちが半裸体で忙しく活動していたが、魔の一閃は彼らの露出した皮膚面を一瞬に焼き尽くし、つるりと剥けた皮膚をあらわにしながらその場に悶え倒れたまま再び起き上がることはなかった。そしてそれに引き続いて起こった火災のため一片の骨すら残らずに焼かれてしまったのだ・・・。

鉄兜をかぶっている人々の一群が多数この災に遭ったところがあった。そこでは焼け跡に点々と鉄兜の残骸がみられたが、その中には人々の頭蓋骨が残っていた・・・。

9日に広島に到着した際、主要道路には1個の死体を見ることさえなく、その焼け跡の清掃の行き届いていることに感激したが、実はよくよく調べてみるとそうではなかった。中心地付近でふた抱えもあると思われる楠の木がへし折られるほどの爆風が真上から作用したので建物は完全にペチャンコに押しつぶされ道路にはみ出した物はなかったわけなのだ。しかも烈火がその跡を焼き尽くしたゆえに道路はきれいなままだったのだ。それに広島の焼け跡を見て特に感じたのは、コンクリート建物以外何も残っていないことだった。他所の焼け跡には必ず見られる土蔵の残骸がひとつもないのだ。爆風の強さがいかに強烈なものであったかが窺われる。”

と、このように広島の惨状は伝えられているものの、なんと8月9日に投下された長崎については一言も触れられていない。長崎への原爆投下は国民には知らされなかった・・・。

また、史上空前の残虐爆弾と銘打っておきながらも、肝心の放射能についてはほとんど触れられておらず、放射線よりも紫外線の方が大きく取り上げられている。

“輻射線(紫外線を主とし熱線および可視光線を伴う)の影響は爆発中心地に近いところの人は強度の火傷を受け、離れた地点の人は露出した皮膚に1度ないし2度の火傷を受けている。また輻射線の特殊の影響として次の現象が挙げられ、この光線は紫外線ではないかと思われる点が多い。

一、ガラス窓の内側にいた人は爆風力による裂傷を受けてはいるが火傷は受けていない。紫外線はガラスを通過しないからである。

一、白色の衣服を着た人はその衣服は焼けていないが、黒色または国民服の衣服は焼けている。また駅に掲示してあった列車時刻表の黒字が焼けているにかかわらず白紙には影響がなかった。なお中心点の建造物の室内でアルミの飯盒を手にしていた3名が全身無事だったのに飯盒を持っていた手が激しい火傷を受けている。これは窓の位置の関係でその部分のみが光線に当たりアルミに乱反射したものと思われる。

一、川の魚が背を焼かれて2日後に死んで浮き上がってきたのは、紫外線が数十センチならば通過するからそのための現象であろう。”

その上で新型爆弾への対策として挙げられているのが、

一、雨天または曇天の日は輻射線は雨滴に乱反射して効力が減少するが爆風圧に変わりはない。異常の閃光を中空に認めたときはすぐに遮蔽物に隠れるか、間に合わないときは伏せること。そして折り目をつけた白色の衣類を着用するか常携すること。警報発令中は防空頭巾と手袋をつけ、また帽子の後ろに白色の垂れをつけること。紫外線除け眼鏡(今でいうサングラス?)は非常に有効である。

一、火傷の治療法は一般の火傷とまったく同じだから動植物油か2、3倍に薄めた海水を常に携行すること。被ばく中心地は放射性物質が広く撒布されており身体に悪影響を及ぼすため長期滞在は危険である。

と、ここでようやく申し訳程度に放射能について述べられているが新聞を読んで事の重大さに気づいた人はほとんどいなかっただろう。しかもこれを戦争が終わった日に読んでももう遅いよねっていう・・w

ただ原爆投下に衝撃を受けたのは世界も同じだったようで、イギリス紙では自己破壊の域に達した技術の粋がついに人類を奈落の底に落としかねないとして原子爆弾の国際管理をこの時点ですでに主張していて興味深い。

さて、次は原爆についての紙面同様に最も興味をそそられる8月15日終戦を新聞はどう伝えたのか、、、。

で、最も目が点になったのは、テレビで8月15日といえばよく流れる“堪え難きを堪え~忍び難きを忍び~以て万世のために太平を開かんと欲す・・・”という天皇の玉音放送の一節なんだけど、これって終戦詔書の本当にごくごく一節だったんだねってことw

詔書の全文が15日の紙面に載ってるんだけど、こんなに長い文言だとは知らなかった。しかも何言ってるんだか分からないし 

よく玉音放送を聞いても日本が負けたことを言ってるとは思わなかったと言ってる戦争体験者がいるけど、たしかに分からんわw

次にその日の毎日新聞の社説や記事はどうなっていたのか。

“昭和16年12月8日大東亜戦争勃発以来3年8ヵ月、昭和12年7月7日支那事変以来8年、日本国民はついに戦勝の鐘を聞くことなくして終局に到達した。この時しどろに乱れんとする心境を貫く一念は、この大戦を通じて祖国の祭壇に貴い生命を捧げた勇士たちに対する熱い感謝の一念である。

日本国民が自衛のために剣を抜いて4年、目に余る敵に対して血と涙と汗とをもって戦い続けたが、結果は今日の事態となった。ここに至った理由と原因とを探求すれば、大なるもの小なるもの実に無数のことが指摘されるであろう。したがって責任論も国民の念頭を去来せずにはすまないであろう。

しかし、我々はこの際において責任論など省みようとは思わない。自身の不肖(新聞の責任)を意識することあまりにも強く、また国家の不幸から受ける悲しみがあまりにも深いからである。過去から得る教訓は貴いが、しかしながら我々は断じて過去にとらわれ過去の囚人となってはならない。強大日本の建設に失敗したがために日本民族が死滅するというならばそれまでの話である。しかしながら人類の歴史を見るに、民族的大不幸の例は枚挙にいとまがなく、それが価値ある民族であるかぎり、大不幸は民族に与えられた試練であったのである。更生の能力ある大民族はその試練を経て新しい運命を開拓するのである。

悲しみの中の大幸は皇室の御安泰である。国民は恭敬をもって皇室をいただき、いかなる悲しい境遇に遭っても精神的に崩壊することなき国民の奥ゆかしさと温かい心をもって新しい生活に入らねばならぬ。”

まず最も衝撃的なのが、この時点ですでに戦争責任を究明することはしないと宣言していること・・・。

で、その考えの裏には自衛のために剣を抜いてとあるように、この戦争は正しい戦争だったという考えがあるからだろう。別な記事では、この戦争についてこうある。

“大東亜戦争は、自存自衛の戦いであるとともに大東亜の解放戦であった。久しく植民地の地位にあった東亜諸民族は、わが公正な戦争目的によって相次いで自由なる独立を許された。今後東亜がいかなる事態になろうともわが正義は燦然として光を保ち東亜諸民族の心奥に生き続けるであろう。これこそ大東亜戦争が世界史に与える最大の成果である。”

つまり結局、要約すると、自分たちは悪くはないけど負けちゃったから仕方がないよねっていうことでしょ。

なななんと終戦の日に、すでに日本は開き直っていた!というオチwwって笑えねーよ。何百万死んだと思ってるんだ・・。

あとは戦争に負けたからといって天皇統治の大権はかわりなく維持すること、いわゆる国体護持が当たり前のように唱えられているのも興味深いところで、“貫き通せ国体護持”とか“皇国興隆へ新出発”といった見出しが載っている。

結局ここの点はアメリカGHQの圧力で日本国憲法が作られ、国民主権となっていくわけだ。

でも、今回の8月15日の新聞の主張や考え方って、まんま今の安倍晋三と自民党そのものなわけでしょ。

戦前の空気と今の雰囲気が似ていると最近聞いたりしてあまりピンと来てなかったけど、こういうのを見るとたしかにちょっと怖いかもって思う。

2015年4月20日 (月)

太平洋戦争の記憶シリーズ第7号:マリアナ沖海戦

昭和19年6月19日に日本の敗戦は決していた!

マリアナ沖海戦はそういう意味合いを持っていたのだということを今回の第7号を見て実感した。

開戦2年半後の昭和18年9月、防戦一方となっていた日本が定めた絶対国防圏。北は千島列島から満州の中国東北部、南はニューギニアからミャンマー・インドネシアまでと、乏しい防衛戦力では到底カバーできないほど広大な範囲に及んでいたわけだけど、結局本当の絶対国防圏は日本本土なわけで、本土から離れたへき地は、白旗を挙げることを許されず、玉砕するまで、あるいは餓死するまで戦い抜き、文字通り時間稼ぎのための捨て石となったわけだ・・・。

そうやって1年後の昭和19年6月、絶対国防圏内のサイパン島へ米軍が上陸する。

サイパンを含むマリアナ諸島を奪われたら航続距離6600㌔という空飛ぶ要塞B-29爆撃機による本土空襲にさらされてしまうので、なんとか阻止しなければならなかった日本軍は乾坤一擲の戦いを挑む。それがマリアナ沖海戦だった。

しかし、海戦といってもその主体となったのは航空戦力で、マリアナ沖海戦は実質日米の航空決戦だった。

ところが日本側は艦船および航空機ともに総力を結集したものの、倍の戦力を有する米軍の足元にも及ばず、結果は言わずもがなの一方的な敗北。

ゼロ戦をはじめとする航空機の8割を喪失、搭乗員の7割が戦死するという悲惨な有り様で、サイパンも陥落し、制空・制海権を奪われた日本の敗戦はこの時に決まった。

しかし、この負け戦、戦力の規模以外にも戦う前から決まっていた面があるのが哀しい・・。

それは例えばゼロ戦の開発設計ひとつとってもそう。

アメリカは優秀な搭乗員は何にも勝る戦力(ひとりの搭乗員を養成するのに2年の期間と2億円の費用がかかるとされた)とする発想から戦闘機に防弾をしっかり設けていた一方、エンジンの非力を補うために徹底した軽量化のもとに作られたゼロ戦には防弾設備がなかったため、戦争が長引くにつれて次々にベテラン搭乗員が失われていき、実戦経験もろくにない新米しかいない状況になっていた。

そんな中で、マリアナ沖海戦で切り札とされた秘策アウトレンジ戦法(米軍機の航続距離の範囲外に自軍の空母を置くことで敵の攻撃を削ぐ一方で、ゼロ戦の航続距離の長さを生かしてそこから敵空母を攻撃する机上の必勝作戦)において、何の目印もない海の上の700㌔先の敵艦隊にたどり着くだけでも精一杯。。さらに米側の暗号解読や最新鋭レーダーで日本の動きはばっちり筒抜け。。

そういう科学技術、情報技術、防衛開発技術という戦闘前準備をしっかりしていたアメリカと、大和魂一辺倒の精神論しか持たなかった日本。

そりゃ誰が見たって勝敗は分かるよね・・w

でも、ここから降伏するまで1年以上粘りに粘るわけだ。数多の死者を出しながら・・。

2015年3月 6日 (金)

太平洋戦争の記憶シリーズ第6号:連合艦隊司令長官山本五十六

今回は連合艦隊司令長官山本五十六についてお勉強。

まず連合艦隊司令長官とは、海軍組織の最高官・海軍大臣、海軍作戦を司る軍令部総長とならぶ海軍三長官のひとつで、海軍の実戦部隊を率いる現場最高指揮官。

Isoroku_yamamotoその中で昭和14(1939)年から戦死した昭和18(1943)年までその任に就いていたのが山本五十六だ。

名前だけは有名で知っていたけど、どんな人かはほとんど知らなかったので、日米開戦や日独伊三国同盟に反対していたことや、真珠湾攻撃の作戦立案をしたこととか初めて知ることばかりで勉強になった。

経歴としては明治34(1901)年、17歳で海軍兵学校に入校。その4年後には日露戦争で少尉候補生として日本海海戦に参加。その際、砲弾の炸裂を食らい、左手の人差し指と中指を失くした。

大正8(1919)年、36歳の時に海軍駐米武官としてハーバード大へ語学留学。2年の滞在中に油田や工業地帯などをくまなく視察し、アメリカの圧倒的な国力を肌で感じたという。中でも航空機の発達には度肝を抜かれ、石油や自動車とともにその重要性を見出した。

その先見性が昭和10年に海軍航空本部長に就いた際に、零戦の開発など航空戦力強化に臨み、航空部隊による真珠湾攻撃の戦果につながっていく。

さて、昭和に入ると、海軍内部ではワシントン軍縮会議(大正10年)における米英10:日本6という戦艦保有率を順守するべきだという条約派(国際協調派)と、そんなの反古にするべきだという艦隊派(対米強硬派)の間で対立が深まるが、昭和6年の満州事変と昭和8年の国際連盟脱退で条約派は粛清されていく。

そんな中、昭和9(1934)年に第2次ロンドン軍縮会議に全権代表として出席した山本。粘り強い交渉に臨むも、10:6の軍備不平等が改められなければワシントン条約を破棄すべしという艦隊派の突き上げを食らい、条約維持という山本の真意とは裏腹に条約破棄が決まってしまう。

この時、アメリカの工業力を実際に見て知っていた山本は、「この条約は日本を3に縛っているのではない。米英を5に縛っているのだ。これをご破算にして建艦競争となれば10:6どころか10:1になってしまう・・」と危惧したという。

そして、昭和13年に陸軍主導による日独伊三国同盟締結の動きが出ると、米英仏が対日経済制裁を課してきたら日本に対抗策はないとして山本は猛烈に反対する。そしてなにより同盟締結となれば対米戦争が避けられない中、国力の差を痛感していた山本は、アメリカと戦争すれば東京は3度は丸焼けになるだろうと一大凶事であるとしてこれにも反対していた。

そんな中で、昭和14年に連合艦隊司令長官に就任するが、その2日後にドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発。昭和15年には日独伊三国同盟が締結され、いよいよ日本はアメリカとの戦争の道へと突き進んでいくことになり、山本も司令長官として対米戦争計画に着手せざるをえなくなった。

総力戦では絶対に負けると読んでいた山本は、半年か1年は戦えるが2年3年となれば分からないとし、短期決戦で講和へ持ち込む連続決戦主義をうたい、開戦約1年前の昭和16年1月には開戦と同時に全航空兵力をもって敵戦力を叩くという真珠湾攻撃の作戦を立案していた。

昭和16年10月の親友・堀悌吉にあてた手紙にはこうある。

“大勢はすでに最悪の場合に陥りたりと認む。今さら誰がよいの悪いのと言ったところで始まらぬ話なり。個人としての意見(対米戦争反対)と正確に正反対の決意を固め、その方向に一途邁進の外なき現在の立場は誠に変なものなり。これも運命というものか。”

昭和16年12月8日、真珠湾攻撃によりアメリカと開戦。

その直後の昭和17年1月の手紙では真珠湾で米空母を撃滅できなかったことを悔やんでいる。

“英米も日本を少し馬鹿にしすぎたるも、彼らにすれば飼い犬にちょっと手を噛まれたくらいに考え、ことに米としてはそろそろ本格的対日作戦に取りかかる本心らしく、日本国内の軽薄なる浮かれ騒ぎは誠に外聞悪きことにて、この様にては東京の一撃にてたちまち縮み上がるのではないかと心配に絶えない。まだまだ真珠湾の勝利では到底安心できない。せめてあの時、空母の3隻くらいも沈めておけばと残念に存じおり候・・・。”

また、同じ1月の手紙では、東京に“爆弾の雨”が降るであろうと日本本土への空襲をすでに予想している。実際、昭和17年4月には東京・川崎などが空襲に遭ってしまう。

そして山本の危惧した予想通り、開戦半年で形勢は逆転。昭和17年6月にミッドウェー海戦で大敗し、8月にはガダルカナル島の戦いで敗退。

同年10月の本土への手紙では、精神論ばかりでしっかりと分析反省をしない仲良しこよしグループ日本軍の隠ぺい体質を批判している。

“こちらはなかなか手がかかって簡単にはいかない。米があれだけの犠牲を払って腰を据えたものをちょっとやそっとで明け渡すはずがないのはずっと前から予想していたので、こちらもよほどの準備と覚悟と犠牲がいると思って意見も出したが、みんな土壇場までは希望的楽観家だから、幸せ者ぞろいのわけだ。”

さらに昭和18年1月の手紙。

“この先は油にしろ食料にしろもっと真面目に考えなければなるまい。艦隊もそれに応ずるような作戦にしなければジリ貧どころかゲリ貧になってしまうだろう。”

そして昭和18年4月、南方戦線視察に赴いていた山本は座乗機が米軍機に撃墜され帰らぬ人となった。

アメリカとの戦争に反対するも最前線に立たなければならなかった葛藤はいかばかりだったか興味深いところだけど、もし終戦時に生き残っていても真珠湾攻撃の首謀者ということで東京裁判ではA級戦犯になったんだろうかね。

“大国といえども戦いを好めば必ず滅ぶ。平和といえども戦いを忘れれば危うい”

山本五十六が残した名言だけど、なんとも含蓄のある言葉だ。

今の日本はどっちだろう・・

2015年1月 6日 (火)

太平洋戦争の記憶シリーズ第5回:ノモンハン事件

第5号は昭和14(1939)年のノモンハン事件と、昭和17(1942)年の第一次ソロモン海戦。

その中でも今回は特にノモンハン事件が取り上げられたので非常に興味があった。

というのも、父方の祖父が22歳の時、このノモンハン事件に歩兵第27連隊の一員として関わり、九死に一生を得ていたからだ。その時の体験を自分は聞くことなく自分が中学生の時に祖父は他界してしまったのだけど、唯一祖父の手の人差指がなかったことだけが自分が目にした祖父のノモンハンの傷跡だった。

なので今回、ノモンハン事件の詳細を初めて知ることができて本当に良かったと思う。

と同時に、父親から読みなさいと言われながら、ついぞ今まで読むことがなかった祖父の手記も初めて読んで、戦争の恐ろしさと共に、祖父が生き残らなければ自分は生まれてこなかったのだと実感した。

手記によると祖父の部隊がノモンハンに投入されたのは8月20日前後。

5月11日モンゴル軍と関東軍の国境警備隊の小競り合いをきっかけに始まり、大隊の衝突から連隊の派兵、そして兵団の激突にまで拡大した激戦の中で、8月20日前後というのは大勢がほぼソ連側に掌握されつつある最後の段階だったようだ。

しかし、前線はまさに地獄。祖父の手記によると、、

“一口に戦場といっても部隊が数十㌔、数百㌔も進撃後退するような機動作戦の場合と、互いに寸土を争って譲らず、主力の激突を繰り返しながら数㌔の地域に押しつ返しつ数カ月に及ぶ場合とでは、戦場の相貌がその凄惨さにおいて全く異なった景況を呈する。まさに「醒風地に充ち妖気満天を覆う」とは後者の場合である。

腐乱した戦死者の遺骸を乗り越え踏み越えて攻撃し、埋葬された敵味方の戦士の遺骸を掘り起こして陣地を構築する。新来の部隊はこの死臭に悩まされること尋常のものではなかった。全く食事も喉を通らない始末である。

ソ連軍の砲弾をもろに受けた陣地では柳の木一杯に異様なものが無数に垂れ下がっていた。ちょうど一握りの昆布を振りかけたように薄黒い物体が風に揺れ一段と強い臭気が一面に漂っているのである。まぎれもなくそれは人間の臓腑であった。棒切れを持ってきて取り除こうとするのだがゴムのりででもくっつけたように絡み合い、柳の枝にくっついてなかなか取れそうにない。業を煮やした上等兵が短剣で柳を切り払おうと言い出していた。しかしここでは一株の灌木一本でも極めて重要な自然の遮蔽物である。「いや、待て待て、戦死者の霊が守っていてくれとるんだ。」と小隊長はそこに軽機関銃座を作っていくのだった。”

そして、8月30日。祖父の部隊は切込み夜襲の命令を受けた。まさに捨て石覚悟の突撃。

“「弾丸を抜けっ!」小銃の弾倉、薬室に装填されている弾丸は一発残らず抜かれて薬盒に納められる。夜襲戦における日本歩兵のやり方は、徹底した隠密行動に終始することを厳に要求した。突撃においても喚声はおろか声を出すことすら憚った。特殊の場合を除いては銃火を利用することは考えないのである。将兵はただ一握りの銃剣、軍刀にのみ一切の戦力を託すのである。かくして部隊は銃剣をかざし密集隊形をもって敵陣を急襲するのである。

それゆえ夜襲前に弾丸を抜く目的は、銃剣一本に戦意を託すということと、極度の興奮や恐怖などから重要な時機に発砲したりすることを防止すること、あるいは暴発により戦友を殺傷するなど、その目的は自ずから明らかであった。

夜中11時半、夜襲部隊は小隊ごとの密集隊形のまま隊伍につめて敵陣に迫った。敵前5,6百メートル以内に入ると這うように慎重な行動となる。重要なことは与えられた目標を的確に衝くということである。真っ白な太いたすきを十字にあや取った中隊長は部隊の先頭に立ち軍刀の柄頭をかたく握りしめ、磁石で方向を標定しながら一歩一歩部隊を誘導して敵陣を迫る。

が、一挙に100メートルばかり前進して伏せた瞬間。突如第2小隊の縦隊から一発の銃声が響き渡ったのである。敵前350メートル、、突撃にはまだ無理な距離。敵陣からは照明弾が打ち上げられ機関銃の猛射が始まった。かくして作戦は中止。中隊は再び帰ることはあるまいと誓った元の陣地に舞い戻ったのであった。時に31日午前2時。

暴発をしたのは第2小隊のK上等兵であった。この日K上等兵は連絡係としてT軍曹とともに大隊本部に出ていたのだが、中隊に帰れという命令を受けて走り帰った時には中隊は小銃の残弾を抜き終わって進発の間際であった。そのまま所属に復帰した2人はついに弾丸を抜く機会を得ずにしてしまったのであった。しかしいかに弾丸が装填してあったにしても暴発はそう簡単に起こるべき事故ではない。K上等兵が幾度か自決を考えたのもまた無理からぬことであった。

しかし、結果的にはこの暴発が切込み隊250名の生命を長らえることとなった。というのは、翌9月1日、全く予期せざる理由により突如戦線に重大な変化がもたらされたのである。”

それはナチスドイツのポーランド侵攻(事実上の第二次世界大戦の勃発)だった。この9月1日を契機にロシア軍は専守防衛に舵を取り、期せずして劣勢の日本軍に戦いの攻勢的主導権が渡ることになった。が、日本軍に反転攻勢の余力は残されていなかった・・・。

“昭和12年7月7日、盧溝橋に端を発した衝突事件は不拡大方針にもかかわらずついに全面戦争を引き起こし国を挙げて泥沼にもがく事態に進行しつつあった。昭和13年5月、中国軍防衛の要衝徐州を攻略、10月には広東、武漢三鎮の占領と、銃後の人々は提灯行列して浮かれていたのだが、幾百万の軍団の補給兵站は極度に延長し、多くの危険を内包していた。同じく13年7月張鼓峯において手厳しい苦杯をなめていた関東軍はソ連軍の物量と科学戦のお手並みをいやというのほど見せつけられていた。

このような情勢の下にあってノモンハン事件は戦われたのであり、無傷の300余万のソ連軍は悠々戦力を養っていたのである。

その中で頼むべきは日独防共協定の盟友ナチスドイツのソ連けん制であった。が、このような苦境に立つ日本軍閥の頭上に衝撃的な鉄槌が振り下ろされた。独ソ不可侵条約締結(8月23日)である。かかる客観条件の中でソ連軍の8月攻勢は展開された。

サハリンより外蒙に続く数千㌔にわたる国境線は精鋭を誇った関東軍・朝鮮軍・樺太軍を釘づけにし、補給戦力ははるばる支那戦線から戦い疲れた部隊を転用する有り様である。

そんな中、独ソ不可侵条約有効中とはいえ、独軍は突如ポーランドに大軍を進め数日にして首都ワルシャワを占領。9月3日、ついに英仏は対独宣戦を布告した。

しかし、ノモンハン戦線における9月1日以降の攻守逆転の態勢は一朝にして変わるものでもなく、我に攻むるの力なく、敵はもっぱら防御工事に昼夜を弁じなかった。戦線は膠着状態に入ったのである。”

そんな中、9月10日。祖父以下3名に命令が下る。それは敵陣への斥候偵察任務だった。

その数日前から行われていた斥候は3度とも失敗。山の稜線を越えて敵陣を眺めてきた者は一人もいなかった・・。斥候にとって全滅ほど始末の悪いものはなく、いかなる状況下においても最低1名の報告者だけは生きて帰るように手段を尽くさなければならないとされていた。

「斥候帰らざるは犬死である」というのは考えてみれば自明の理ではあるのだけど、かくして祖父たち3人も敵に察知され、祖父は指と左大腿部を撃ち抜かれ動くこともままならない状態になってしまった。

他2名の足を引っ張ってはならぬと考えた祖父は自決寸前まで追い詰められたというが、奇跡的に3人とも無事に自陣に収容された。

そして、それから5日後の9月15日。ついにモスクワで停戦協定が成立。

まさに九死に一生を得た祖父だったが、後にシベリア抑留というさらなる試練が待ち受けていた・・・。

それはまた後の機会に譲るとして、次は第1次ソロモン海戦について少し。

ここで思い出されるのが、小説・映画ともに大ヒットとなった「永遠の0」だ。

映画の中では、ガダルカナル島をアメリカ軍に奪われた復讐戦として、ラバウルに駐屯していた航空隊に出撃命令が出た時に、主人公の宮部久蔵が「ラバウルからガ島まで1000キロ以上あり、現地にたどり着いても帰りの燃料を考えると実質10分程度しか戦闘できない。こんな無謀なことは意味がない」と言って同僚に殴られるシーンとして描かれていた。

そして、宮部の部下が満身創痍で帰路につく途中に燃料切れで海に不時着するも、サメの餌食になってしまうという顛末は印象的だった。

この無謀ともいえる航空出撃によって、歴戦のベテラン搭乗員が次々に失われていくことになるわけだけど、大本営発表ではソロモン海の大戦果!とか、敵艦隊を撃滅!とか良いことづくめで発表していてゲンナリ・・・。

宮部さん、安らかに眠ってくださいw

2014年11月24日 (月)

太平洋戦争の記憶シリーズ第4回:硫黄島の戦い

00111144d5a5103d6e941d 硫黄島の戦いというと、クリント・イーストウッド監督・渡辺謙主演の映画でその概要は知ってるつもりではいたけど、守備隊2万1千人のうち戦死者2万、戦死率95%という異常な数値には驚愕した。玉砕戦とはこういうことをいうんだとまざまざと理解できた気がする。

さらに、敵艦船に向けて神風特攻隊が出撃していたというのも知らなかった。

新聞で詳しく硫黄島の激戦の様子が伝えられているのも意外だったけど、もっと意外だったのは戦局が悪いことを率直に認めていることだ。

昭和20年2月18日付の新聞には関東~静岡に2日続けて空襲があったことや、疎開宿舎の爆撃や走行中の列車へ機銃掃射があったことなどを伝えているように、本土空襲がその規模も頻度も増す中で、戦局の悪さを認めざるを得ない状況になっていたということだろう。

昭和20年2月23日付の毎日新聞ではこのように書いている。

“敵は最近の好調に乗って今一息とばかりにひた押しに押してきている。これは建国以来かつてない危機である。わが勇士の相次ぐ大戦果にもかかわらず戦局の大勢はきわめて悪い。ルソン島において我が軍は出血作戦にかえて何ゆえ殲滅作戦を行わぬか、本土に来襲した敵機動部隊や敵硫黄島上陸軍をなぜ壊滅しないのか。答えはただひとつ、航空機が無いためだ。航空機さえあれば敵を殲滅することは難事ではない。現在我々は歯を食いしばり敵の跳梁を黙過せねばならない。実に苦痛であり憂鬱である。しかし、国民は火が降っても槍が降っても石にかじりついて耐え忍ばなければならない。国内はもとより戦場である。

戦争の最後を決するものは武器でも戦略でもなく結局は国民の士気なのだ。必勝の信念が今より大事な時はない。軍は巌として神機を待っている。驕りたかぶり日本抹殺を呼号する敵米の伸びきった腰にガツンと痛打を与えるべく忍びがたきを忍んで神機を狙っている。神機の到来まで国民はこの苦境を耐えなければならない。神機到来の際、敵に十二分の痛打を与えうるかはひとえに国民の努力いかんによるのだ。”

やめろよ、もうこんな戦争(笑)。

戦況の悪さを軍部や政府への批判に矛先が向かわないところが異常だけど、精神論を語ってる時点でもうダメだろww

しかも、“軍は神機を待つ”って、神頼みじゃねーか・・。織田信長の桶狭間じゃないんだからさw制空・制海権を取られた時点でもう終わりだろこの戦争は。

一億を挙げて全力で大出血戦を行うべしとか、もうホント狂ってるとしか言いようがないよね。

なんか負け戦するにしても、もっと早く終わらせることができたような気がするんだけど、こういうの見ると。少なくとも広島・長崎の原爆投下前にどうにかならなかったのかなぁ。。

あと、“国内はもとより戦場である”ということに関して、先の2月18日付読売報知はもっと突っ込んだ書き方をしている。

“戦争の開始と同時に、実は国内も戦場であり、全国民は戦闘員だったのだ。だがこのことは今まで実感として盛り上がるに至らなかった。が、敵の来襲はこの眠っていた意識を固く呼び覚ましてくれた。戦闘意識を実感にまで高めることに役立ったのだ。国内も戦場、国民が戦闘員ということは、国内においても敵打倒の機会が身近に捉えうるということだ。戦線がどこにあるかは近代戦では問題ではない。敵の国土で撃とうと国内で撃とうとその間に優劣はない。”

アホか(笑)。詭弁にも程があるけど、なんかホント今の北朝鮮と同じだったんだなぁ日本って・・。

治安維持法や特高警察とかもそうだけど、そういう恐ろしい国に再びならないことを願うばかりだ。

さて、今回の新聞アラカルト。

空襲の頻度が高まっていることを踏まえて、「今日の知識」というコラムで、敵機の見分け方が載っていたのは面白かった。

あと、爆弾を積んだ気球を日本から打ち上げて、ジェット気流に乗せてアメリカ本土まで飛ばして爆発させるという気球爆弾(いわゆる風船爆弾)が全米を震撼させているという記事があって、いつだったかテレビ番組で見たことはあったけど、本当にそんなこと出来たんだとビックリした。

あっちはB29大型爆撃機で、こっちは気球か・・。なんか泣けちゃうな

しかし、そういう恐ろしい暗黒の時代をひしひしと感じられる紙面にあっても、国民の最大の頭を悩ませていたのは実は梅毒だったww!?というのが当時の新聞の広告面を見ると必ずといっていいほど梅毒・淋病の対処療法や専門病院の広告が載っていて、今回なんて昭和8年の新聞!しかも小林多喜二の拷問死を伝える記事の真下に、頭を抱えて悩んでいる絵とともに載ってるんだからさ

当時は結核とともに梅毒って大衆病みたいなかんじだったんだねぇ・・。

2014年11月 5日 (水)

太平洋戦争の記憶シリーズ第3回:二・二六事件

今回は昭和11年(1936)の二・二六事件。

教科書で習ったうろ覚え程度の知識しかない自分からすると、二・二六事件って、政治権力を我が物にしようとした軍部が政権中枢に刺客を送り込んだクーデターというイメージがあって、実行部隊となった青年将校を上層部が裏で操ってたと思い込んでたのだけど、ちょっと違うんだね。。

そもそも首謀者といわれる青年将校たちが死刑になってたとはこれまた知らなかったけど、この事件の背景に政財界の腐敗や地方農村の窮乏状態への憂いがあり、それを糺すための決起だったというのは意外だった。

そこで出てくるのが、首謀者たちに大きな影響を与えた革命思想家・北一輝。

この北一輝という名前にはちょっとした思い出があって、学生時代に赤点以下しか取れなくて唯一落としたコマが政治学入門だったんだけど、その時に講師がよく口に出してのが北一輝だったんだよね。

どういう経緯でこの人の名前が出てきたのか、ちょっと思い出せないけどw、自分の記憶では右翼の中の右翼だとばかり思ってただけに、「維新革命の本義は実に民主主義にあり」と謳い、言論の自由や基本的人権の尊重、普通選挙の実施、財閥解体などの実現を目指していたとは知らなかった。

自由民権運動の気風の中で育ち、当初は社会主義思想に耽っていたということだけど、大逆事件で死刑になった幸徳秋水とも交流があったというのだからその傾倒ぶりは本物だったのだろう。

しかし、日露戦争で非戦論を唱え、階級闘争による下からの突き上げでそれを実現しようとする秋水に対し、北一輝はあくまで国家を前提とした上からの統制によりそれを実現するべき(国家社会主義)という考え方の違いから袂をわかつことになる。

そして折りしも世の中は不況、政党政治への不信、格差・階級社会の不満と閉塞感が充満しており、それを打破するためにはもういちど維新-昭和維新-を行うほかないと考えていくようになる。

その維新の最終の理想形は、天皇親政(直接統治)による平等社会の実現。つまり、世の中がダメになったのは天皇と国民の間にいる財界・資本家・華族・国会議員などが私利私欲に走っているからであり、これを叩き潰すことによって天皇と国民が共に行動できる公民国家-明治維新本来の理念-が実現できると説いた。

ようするに大日本帝国憲法にある天皇は神聖にして侵すべからずという、国民にとって遠い存在である天皇をもっと近い存在に置き、“天皇の国民”から“国民の天皇”に変えていくということ。

そして、それをサポートしていくのは唯一堕落していない軍人であり、これも天皇の軍隊-皇軍-から国民の軍隊-人民軍-とし、武力革命・クーデターによって維新を成すとした。

これが貧農出の青年将校の共感を呼び、実行に移されるわけだけど、結局ここに待ったをかけたのが昭和天皇だったというのがなんとも皮肉だよね。。お前らは逆賊だ!となるわけでしょ。

まぁ結局二・二六事件は反乱として鎮圧されるわけだけど、これをきっかけにある意味たなぼた式に軍部の発言権が増し、北一輝の思想は天皇制ファシズムへといいように変容され、この翌年には盧溝橋事件が起こり日中戦争へと突き進んでいくわけだ・・・。

でも、国民の天皇とか、基本的人権の尊重や普通選挙の実施など北一輝が実現しようとしてたものって敗戦を経て日本国憲法下で実現したのだからこれまたなんとも皮肉。

さて、次はオペレーション&ファクトファイルで取り上げられた昭和17年(1942)の蘭印侵攻作戦。

アメリカのとった経済制裁・禁輸措置によりアメリカからの石油輸入が大きく制限され、日本の生命線である石油獲得のために行われた作戦だけど、ななんと当時の日本って石油の8割をアメリカから輸入してたんだね。

現在の日本は中東依存度が8割だけど、昔はアメリカだったんだ・・。しかもたった1カ国だけで8割ってww

他に頼る所があればまだしも、自らリスクを負って外に打って出なければそれも無いような中で、エネルギー依存度8割の相手と戦争するって、、どう考えても自殺行為だろーー(笑)。なんでこんなバカでも分かるようなことを・・。政治は一体何をやってたんだ。

軍部の暴走があったとしたって、その軍上層部だって今の東大出くらい頭の良いエリートの集まりだろw!?

あ、そっか、、官僚化しちゃうとバカの集まりになるってのは今も昔も同じだったか(爆)。

次は新聞アラカルト♪

今回はシンガポール陥落を大々的に報じた大阪毎日新聞のどでかい見出しが目を引いたけど、企業広告にまで“祝シンガポール陥落”と銘打ってるのは驚き。

だって、“祝シンガポール陥落!薬用クラブ歯磨き!”とか、“シンガポールに凱歌あがる!1億の決意いよいよ固し、進め貫け米英に、最後のとどめ刺す日まで!さくらフィルム”って、広告としておかしいだろ(笑)。

でも、シンガポール陥落記念国債なんてものまであったとは驚きだね。

あと広告で面白かったのが、STAP細胞でお騒がせした理化学研究所がもの凄いものを開発していたというもの。

それは、なんと、、

“権威ある財団法人、理化学研究所製品!便秘薬!!”

今から70年以上前にはそんなもん作ってたんだねw

2014年10月24日 (金)

太平洋戦争の記憶シリーズ第2回:ミッドウェー海戦

今回第2号は開戦前史が国際連盟脱退。オペレーションファイルがミッドウェー海戦。

どちらも日本を破滅に追いやるきっかけになった分水嶺といえるけど、日本の進むべき道を狂わせた大元となると、やはり1931年満州事変→1933年国際連盟脱退の流れの中にあるといっても過言ではないだろう。

日本の傀儡である満州国建国に異を唱えた中国が国際連盟に提訴したことによって議論対象となった満州問題。

常任理事国だった日本としては、連盟にとどまって満州国の存在を認めさせることがベストと考え、当初は天皇から政府以下軍部でさえも脱退は望んでいなかったという。それは常識的に考えれば、もし脱退すれば日本の起こした満州事変が正義の行為ではなく悪だったと自ら認めるようなものだから当然といえば当然なんだよね。

なのに、なぜに誰もが望まぬ道へと突き進んでいったのだろう・・・。

まぁ、そもそものところで満州事変自体が関東軍の謀略だったわけだから、やましいことを正当化し続けるって絶対どこかで無理が生じると思うんだけど・・。その中で脱退回避を使命として交渉に当たったのが、創刊号で日米交渉の最終案である日米諒解案を蹴った一大戦犯ともいうべき松岡洋右。

ところが、日米諒解案を否認する8年前のジュネーブでは文字通り孤軍奮闘の働きをしていた、らしいw

また、中国に租界などの権益があり、さらに極東での共産主義の拡大を防ぐ防波堤になると考えていたイギリスは日本の満州での軍事行動や各種権益を黙認していたらしく、そんな中で和協委員会という日中米英ソで話し合って和解調停する案を持ちかけてきた、、、

のだが、なななんとそれを本国の内田康哉外相が頑なに拒否!

それを知ったイギリスからさらに米ソを外した妥協案が出されるもそれも拒否!

ってなんやねんお前はーwwホントの戦犯は松岡じゃなくて内田かぁ!?

この内田が蹴った理由というのがすごい知りたいけど、妥協は絶対ダメで連盟脱退せよという国内の強硬な世論(当時の新聞を見ると驚くほど世論の方が脱退一色に染まっていたことが分かる)に押されてのことだったのか、外相という立場から中国の情勢が逐一入ってきて脱退しても大丈夫だと踏んでいたのか。。

結局、この松岡vs内田は内田に軍配が上がり、さらに熱河作戦(熱河地方への侵攻作戦)が決行されたことで選択肢が脱退以外になくなってしまった。

そもそもこの熱河作戦にしたって、国際連盟での交渉真っ最中に新たな侵攻作戦が裁可されること自体おかしな話で、連盟で非難勧告が出た後に新たな戦争行為に出ると連盟は経済制裁できるという条項があることを政府は百も承知してたはずなのにそれが決行されちゃうって、、関東軍の暴走はもはや誰にも止められなくなっていたということなのだろうか。。

さて、ここで国際連盟脱退について、大阪毎日新聞に載せられた言論人・徳富蘇峰のコラムが興味深かったので引用しておく。

“およそ自衛には狭義の自衛と広義の自衛がある。例えば、家の戸締りや火の用心や泥棒の侵入を防ぐのは狭義の自衛だ。しかし、これのみでは一家は決して安全とはいえない。例えば軒下で焚き火をされたら?家のそばに犬猫の死骸が置かれていたら?隣家に賭博場が開かれ、昼夜問わず喧噪されたら?近所で石合戦をなし、そのつぶてが家に投入されたらどうする?

我らは明治27年の日清戦争においていかに苦労し、つづく明治37年の日露戦争においていかに国家の全力を傾けつくして、ようやくその目的の一部を達し得たか。

日本と満州とは切っても切れない縁故がある。しかるに満州より我が日本人を駆逐し、その権益を剥奪しようとしたではないか。ここにおいて我らは敢然として起った!それは全く止むにやまれぬ生死に関わる極所に押しやられたがためだ。もしこれを自衛と言わなければ、世の中には自衛なるものはあるまい。

世人は連盟脱退の結果、列国が日本に対し経済封鎖を行うであろうと言うが、そんなのは容易にはいくまい。第一次大戦の時だって経済封鎖は十分に実行されなかったではないか。今日どの国が日本に向かって命がけの戦争を敢えてしようとするだろうか。その決心なき以上は封鎖は決して実行しうるものではない。

しかも実際我らは決して封鎖には辟易しない。人を呪わば穴二つということわざがあるように、封鎖で困るのは日本ばかりではない。困難は双方にあるし、相手方の方がより困難だろう。

もし万一封鎖があるならば、我らはかえってそれを好機として自給自足の国家的生産の興隆を図るべきだ。日本は決して食料にも燃料にも窮さない。禍い転じて福と為すの方策をめぐらす絶好の機会なのである。”

大正昭和を代表する言論人からしてこんな論調なんだから参っちゃうよね

しかし、「満蒙は日本の生命線である」という松岡の言葉通り、それまでに多大な犠牲を払って手に入れた大陸の権益に対して絶対手放すわけにはいかないという思いが世論含めて強かったんだろうね。

でも、ホントに新聞世論がここまで率先して戦争推進していたとは想像を超えていた。

それに関連して、ミッドウェー海戦を伝える2面記事で大政翼賛会の刷新についての記事があったけど、国防訓練の徹底と国民思想の統一を部落会・町内会を通して全国民に行き渡らせ、一億打って一丸となり帝国の使命を果たさなければならないとある。

まさに蟻の子一匹通さぬ全体主義の中で、異論を差し挟む余地や空気などなかったことが窺われる。

さて、次はようやく本題のミッドウェー海戦だ。

Img_taiheiyou10_05 日本の歴史的大敗北に終わり、文字通り太平洋戦争の流れを変えた分水嶺となった一戦。4隻の主力空母を投入するも全滅、3千人戦死、3百機の航空機が空の藻屑と消えた。

そもそもミッドウェー島攻略作戦は、山本五十六連合艦隊司令長官が相手空母撃滅のために立案したものだったが、ミッドウェー海戦の1ヶ月前に行われた珊瑚海海戦が世界初の空母戦だった。つまり軍艦戦=相手が見える戦いから空母戦=相手が見えない戦いへと海戦の質が変わったわけだ。

では、相手が見えない戦いに勝つにはどうすればよいかといえば、先に相手を見つける以外にはない。つまりそこで最も大きなポイントとなるのは、何よりも情報なはずだ。

ところが、日本はそれを軽視した。

暗号を解読されアメリカ側に作戦の詳細が筒抜けになっていた時点で勝敗は決していたともいえるけど、作戦実施前の図上演習で4隻空母のうち2隻沈没1隻大破という結果になったにもかかわらず作戦を見直さずに強行したり、索敵で肝心の索敵機が雲の上を飛んだため敵空母を見逃してしまったり、相次ぐ兵装転換命令のドタバタ劇とか、ずぶの素人の自分でもなんで??って思うほど信じられないような怠慢とミスの連続には目を覆いたくなるばかり。

田原総一郎いわく、「日本の悪いところが全部出た戦い」だったといえる。

しかし、歴史的大敗を喫したにもかかわらず、新聞では米空母撃沈!とか刺し違え戦法成功!とか全く逆の大戦果として報道されている。ミッドウェー海戦が6月4日で、今回の新聞紙面が6月11日だから1週間も間が空いてたのか。。大本営ではどうやって隠蔽しようかあーでもないこーでもないやってたんだろうね。生き残った将兵も外部に事の真相が漏れないように本土に戻っても隔離されたらしいし・・。

これが昭和17年だから、この後3年も何ら真実を伝えられることなく、いってみれば茶番劇に付き合わされ数多の尊い生命をなくしながら破滅の道を突き進んでいったんだね。。なんともやり切れないね・・。

で、今回の国際連盟脱退とミッドウェー海戦の失態をみて思うことは、行き当たりばったり感がハンパないというか、結局のところ組織と意思の不統一に行き着くのだと思う。

そしてその綻びが限界に達すると、根拠のない精神論で覆い隠し、そのツケは全部国民に回ってくるという悪循環。その最たるものが特攻作戦と玉砕戦だろう。

やっぱ戦争はダメだ。。

さて、ここからは太平洋戦争のお勉強よりも断然面白くてたまらない新聞アラカルトー!!

今回は昭和8年の大阪毎日新聞の社会面で、当時の事件記事が目を引いたけど、殺人事件って毒を盛るのが主流だったんだね

そして、ミッドウェーより何より1番驚いたのが、大阪で27歳の主婦が服毒自殺した事件で、その自殺原因が夫がダンスに明け暮れていることにほとほと嫌気が差したからだって(笑)。マジかよー!どんな時代だったんだ・・。

2014年10月18日 (土)

太平洋戦争の記憶シリーズ第1回:真珠湾攻撃

去年リリースされたサザンオールスターズの復活シングル「ピースとハイライト」で、“教科書は現代史をやる前に時間切れ、そこが一番知りたいのに何でそうなっちゃうの?”という歌詞があって、もの凄く共感したんだけど、ことに明治維新からの新政府成立以降~昭和20年の終戦までの約80年間ってほとんど知らないことだらけなんだよね。

で、最近は小説映画ともに心に残った永遠の0に触れたことと、満州からの帰還者である父方の祖母が亡くなったことが重なって、シベリアに抑留されていた祖父ともに日本に無事帰ってこなければ自分はこの世にいなかったんだなぁと感慨を抱いたことから、あの戦争の時代と日本の近現代史について知りたいと強く思っていたわけで。

61gc0oe8xkl__sl500_aa300_ そんな矢先にアシェット・ジャパンの太平洋戦争の記憶シリーズが刊行されるということで、CM見て購読を即決!

一触即発状態の日韓・日中関係であったり、集団的自衛権や憲法改正の問題であったり、一歩間違えたらヤバイんちゃう!?というきな臭い雰囲気が鈍感な自分の肌感覚にも伝わってくるような世の中になってるし、永遠の0でも指摘されてたように戦争を経験した世代があと10年もすればいなくなってしまう中で、これは本当にタイムリーな企画だと思う。

ということで、毎号ごとに簡単な要約と思ったことについて更新していきたいと思います。

と、意気込んでいたんだけど、、ウチに届いてかな~り経ってからようやっと創刊号読み始めました

で、創刊号はいきなりの真珠湾攻撃だったんだけど、何が1番驚いたって当時の新聞が疑義や批判など一切ない戦争翼賛と推進一色に染め上げられてたこと。

当時の新聞が大本営発表の媒体と化していたことは話には聞いてたけど、実際に見てみるとやっぱりビックリした。だってあの朝日がだよ(笑)。

神国は永久に不滅である!とか、聖戦なんていう言葉まで出てきて、まさに官民国家一体となって突き進むという、またそれを新聞が率先してやっていくわけだから、まさに洗脳の格好の道具だったんだね。。だって、新聞各社共同主催の“米英撃滅国民大会”の告知記事まであるんだから。

そんな風潮の中で戦争反対なんて唱えたらそりゃ非国民として袋叩きに遭うわなぁ

軍国主義の恐ろしさをまざまざと実感できた気がする。

でも、A級戦犯の筆頭として挙げられることが多い東條英機って日米開戦のわずか2ヶ月前に首相に就任していたとは意外だった。しかもその1ヶ月前に御前会議で事実上日米戦が決まっていたということで、ある意味では貧乏くじを引いちゃったってことなのだろうか。

読売新聞は東條内閣について、日中戦争開始から4年で7回も内閣がコロコロ代わる中、ついに現役の軍人を首班とし、政治と軍事が完全なる融合を果たした“弾丸内閣”“死なばもろとも内閣”として突進していかなければならないと豪語している。

死なばもろともって、なんかスゴイ表現・・

ただその東條も首相任命の際に天皇から日米戦争回避の意思を伝えられ、それを実現すべく動いたというのだけど、時すでに遅しだったのか・・。

って、天皇の意思は戦争回避で、東條の前にも日米交渉は水面下で続けられていたみたいだけど、それがことごとくご破算に終わってしまい、結局開戦に至ってしまったというのは、、歴史にifもしもがあればと思ってしまう。。

特に開戦8ヶ月前に出された「日米諒解案」(昭和16年4月)を受諾していれば、、歴史はどう動いていたんだろうか。

開戦について朝日新聞は、世界の警察権を一手にするがごとき大それた口をきき、思い上がっている米英に責任はあるとし、特に蒋介石率いる重慶政府(日中戦争の相手)を助けていることに我々日本は堪忍袋の緒が切れたのだとブチ切れている。

いや、そもそも中国に攻め込んだのは日本じゃんって話なんだけど(笑)。

その重慶への救援輸送路を断つために仏印に進駐した(昭和16年7月末)日本に対し米英が経済制裁でもって応えたことが最大の転換点だったとも思えるんだけど、これだって日米諒解案を受けてればどうなったか分かんないよね・・。なんだかなぁ。。

なんか、ホントのA級戦犯って、日米諒解案を蹴った松岡洋右じゃん!と今回の創刊号を見て思ったw

さて、話は打って変わってここからは新聞アラカルト~~

当時の新聞を見て気になったことやビックリしたことを挙げていきたいと思います

まず気になったのが、朝日新聞の真珠湾攻撃の一面記事で、戦果を伝える記事の発信元がリオデジャネイロ特電とかブエノスアイレス特電になってることで、なんでまたブラジルとアルゼンチンなんだろ??

これって要するに、敵国であるアメリカの情報を伝えられる一番近い国、しかも新聞社が特派員を送れる国が南米にしかなかったってことなのかな?

で、同じ一面を見ると、中米のニカラグアとコスタリカも対日参戦してるんだよね。これも初耳だったんだけど、そうなるとやはり日系人の多いブラジルやアルゼンチンにしか契約できる通信社がなかったということなのかもね。

他には、やっぱり新聞の下部に掲載される出版・求人・案内広告欄が目を引いた。

防空壕の施工設計とか今じゃ考えられないのもあったりしてw

あと“求妻”“求縁”って嫁さん募集広告があったのはビックリした。

そして、何より今回の新聞で最も目が点になったのが、昭和5年の新聞の海外ニュース記事。ベルリンに住む22歳のヘルバート・ハッセという男性が女性の着物を着ないと気分が悪くなると訴え、それが認められて名前をヘルタ・ハーセ嬢に変えて市内の病院で看護婦として働くことが許された、、って昭和5年にすでに性同一性障害が認知されてたってマジすごくない??て思ったんだけど。

いやぁ~大昔の新聞って面白いww!

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