夢のシネマパラダイス50番シアター:千と千尋の神隠し
声の出演:柊瑠美、入野自由、夏木マリ、内藤剛志、沢口靖子、大泉洋、菅原文太
監督:宮崎駿
(2001年・東宝・125分)MOVIX仙台
評価★★★☆/70点
内容:10歳の少女・千尋は、両親と一緒に引越しの途中、八百万の神々が病気と傷を癒すために訪れる温泉街へ迷い込んでしまう。千尋は、街の掟を破りブタにされた両親と別れ、謎の美少年・ハクの手引きの下、湯婆婆という強欲な魔女が経営する湯屋で、「千」という名前で働くことになる。
“トンネルを抜けるとそこにはジブリ出資の回転寿司屋、宮崎アニメワールドが。これでもかと繰り出される既出ネタに新ネタがさらにトッピングされ、お腹パンパン途中で胸焼け。どうりで終盤眠気が襲ってきたわけだ・・・。ここ宮崎アニメワールドに入り浸ると子供以外はホント豚になりかねない。”
まず、最初に言っておかなければならないことは、この映画はホントに凄い、ということだ。次々と押し寄せてくる宮崎駿のファンタジー世界のイメージだけでこの作品を2時間もたせているからだ。しかも見ていて楽しい。
しかし、裏を返せばそれだけであり、自分が見たかったのはこれではないという不満も残る。
不満その1.キャラクター
子供の時分に見ていれば、暴走するカオナシに本気でおののいたりと、もっと純粋な気持ちで見れたと思うが、そういう年頃でもなくなった自称大人の自分は話が進むにつれていまいち乗れないのだ。
その最大要因は登場人物のキャラである。感情移入できるやつがほとんどいない。
千尋にしたって、冒頭の引越し先に向かうシーンで車の後部座席でいじけて横になっているという時点で冷めてしまう。
現代っコはあんなものなのか!?
自分がチビの頃、引越しを4,5回経験したが、食い入るように新しい外の景色を眺めたものだ。
それゆえトトロのさつきとメイの冒頭シーンにはすんなり入っていけるのだ。今のガキんちょは窓側の席の取り合いなんてしないもんなのかね。
それはともかく、感情移入できないのはハクなども同じ。
すなわち1人1人のキャラに善玉・悪玉が入り混じって含まれているキャラになっていて、キャラ設定に限っていえばハクも湯婆婆なども明らかに現実の人間世界と表裏一体であるといえる。
要するに、正真正銘の悪玉も善玉も登場しないわけだ。例えば、湯婆婆は極端な話、ラピュタでいえば女海賊ドーラと非常に重なるが、ムスカと重なる人物が千と千尋にはいない。つまり、湯婆婆はあくまでも中間的な存在に位置する人物でしかないといえる。
カオナシにしてもしかり。ムスカと最も重なる可能性があったのはむしろカオナシといえるが、意思の疎通ができない単なる得体の知れないものとしか言いようがない。
ファンタジーの世界でこういうキャラ設定はあまり見たくない。
自分がいかにファンタジーに毒されつくしているかが逆に分かろうものだが、やはり正直いって見たくないのだ。別にファンタジーの縄張りで現代の人間社会を語ってもらいたくないだとか侵入して来ないでほしいとか言っているわけではない。
現に、現実世界と異世界とが交錯するという題材はファンタジーではよくある話である。
ここで言いたいのは、個々のキャラである。
つまり、ファンタジーの世界、宮崎駿が言うところの不思議の町にある湯屋、の住人が揃いに揃って現実の人間世界と同じキャラであるのは、何の面白みもないばかりか、もっと突っ込んで言えば、ファンタジーで語る意味もないと言いたいのだ。
不満その2.ストーリー
<1>ファンタジーにする意味はあるのか
このてのパターンのファンタジーものの主人公は、現実世界では落ちこぼれだったり、いじめられっ子だったり悩みを抱えていたりする傾向が多く、異なる世界で様々なことを経験して成長し、強くなり(千と千尋でいうところの生きる力を取り戻して)現実世界に再び戻るというつくりになっているものがほとんどだと思う。千と千尋もこのパターンだ。
しかし、ここで問題になるのが、「様々なことを経験する」という様々なこととは何かということだ。
そうして考えてみると、一般的にほとんどのファンタジーものは悪玉との闘いを主軸に据えていることが多い。主人公が勇気を奮い立たせるための格好の題材といっていいだろう。
ところが千と千尋はどうかというと、つまるところそれは“仕事”なのである。湯婆婆との対峙ではないのだ。
豚にされ、ある意味人質となっている両親を助ける(あるいは自分が生きる)という目的に対する手段が対決を経て戦いに勝つという勝利ではなく、契約を経て仕事をして認めてもらうという承認・許可なのだ。
それゆえ、自分は現実世界でそんなんできるやん、異世界でやることないじゃん、という思いに駆られてしまうのだ。
<2>魔女の宅急便との比較(マイノリティとしてのアイデンティティの確立という側面)
ここで、好対照をなす例を挙げると、同じ宮崎アニメの「魔女の宅急便」<注1>がある。
魔女宅は千と千尋とは異なり、現実世界(人間の住む世界)が舞台である。普通に生活している身近な世界で魔法使いが仕事をして生活しながら修行するという、千と千尋とほとんど正反対のパターンのつくりになっている。そして自分は魔女宅の方にはすんなり入っていけるのだ。
それも考えてみれば当然。現実世界で人間ができることは限られているし、普通の人間が魔法を使えるはずもない。
つまり魔法使いのキキは、既に普通の人間を凌駕する能力を持っており、別段他人と戦う必要もなく、逆に修行しに行った街の社会に受け入れられ、自分のアイデンティティを築けられるかというマイノリティとしての側面で描くことが可能になる。それはすなわち孤独との闘い。だから別に悪玉なんて必要ない。
このように千と千尋は魔女宅の設定をほとんど裏返しにしたつくりになっていると言えるが、はたして千尋にはマイノリティとしての側面があるのか。
とすると、答えは否。
まず、人間が入ってはいけない世界に足を踏み入れた人間としてのマイノリティの側面。
これは普通ならば成立するのだが、なにぶんこの映画が、不思議の町にある湯屋「油屋」という限定された空間を舞台にしているため、非常に狭い範囲で考えなければならない。すなわち湯婆婆を女将とする湯屋「油屋」に人間の千尋が受け入れられるかという側面で考えざるを得ないのだが、一見すると成立しそうにも思える。
しかし、その実態は、千尋だけならともかくハクやリンなどの湯屋の住人(労働者と言った方がいいか)も名を奪われ湯婆婆に支配されているわけだから、人間として受け入れられるかどうかという以前の問題であり、到底成立しえない。もし受け入れられたとしても、ただ単に子ブタにさせられてしまうだけである。
さらに能力的にもマイノリティとはいえない。湯屋の中では湯婆婆とハクしか魔法は使えないわけで、むしろ千尋は一般的な側であり、湯婆婆に支配される側としての多数派に属するといえる。
どのように考えてみても千尋をマイノリティとしての側面で描くことはこの映画の設定では不可能なのだ。
<3>スタジオジブリの社訓:午前3時に仕事を引き上げて帰ろうとすると、宮崎駿監督に「もう帰っちゃうの?」とフツーに引き止められる・・・。まくるゼ!!
では、なぜ千尋を含めた湯婆婆に支配されている側が、湯婆婆と対決し自らを解放するという話にならないのか。
まず、そういう話を作るには前提として人間が足を踏み入れてはいけないという不思議な世界が一体どういう世界なのかという枠組みを提示する必要がある。鉄道が通っているくらいだから相当な広がりがあるらしいことは分かるが、その枠組みを描写しないと、単なる湯屋「油屋」という限定された場所で、不思議な世界でどのような役割や位置にいるかも分からない湯婆婆とやり合っても何の意味もない。
この映画ではそれが描かれていない。
だからこの問いに対する答えというのは、結局製作者側の時間の制約あるいは2時間で話が収まらないといった作り手側の問題に行き着いてしまうのだが、それでは面白くないので、そもそも宮崎駿はそんなこと全く興味がなかったのだというのが本当の答えだと思いたい。
<4>物語の落としどころ:喪失・欠落したアイデンティティの獲得
湯婆婆と対決し自らを解放する、しかしそれ以前の問題として「自分」がそもそも喪失・欠落していては何の意味もない。
名前を奪われるというのはその暗喩であり、名前を取り戻すこと=自分は何者なのかという気付きとアイデンティティの獲得=自立。それが宮崎駿の大テーマなのだろう。
そう考えると、意思の疎通ができない得体の知れないもの=アイデンティティを完全に失った者=カオナシは最も分かりやすいかもしれない。
そして、不思議な世界での経験により千尋は人間力の成長を呼び覚まし、本人だけでなくハクや坊、カオナシまでにも「自分」の気付きを与える存在になるという物語。
結論:ファンタジーに執着する宮崎駿という男
こう見てきても、やはりファンタジーにする必要あるのか!?という引っかかりはうっすらと残る。
キャラ設定は現実の人間世界と表裏一体、話のつくりも現実世界と表裏一体で、この映画を支えている要素は宮崎駿が繰り出す不思議な世界のイメージただそれだけである。
例えるなら大友克洋の「MEMORIES」第3話“大砲の街”を2時間延々と見せ続けられているようなものであり、終盤飽きがくるのも当然といえる。
しかし、自分がこの映画に★3.5をつけているように、宮崎駿の繰り出すイメージにはもの凄いものがある。物語の穴を感じさせないほどだ。
ただ、どこかで見たぞというネタが多かった気はする。
ススワタリは出てくるし、カリオストロでクラリスが幽閉されていた塔の部屋と同じデザインの部屋が出てくるし、ルパンの直滑降ダッシュに未来少年コナンの配管綱渡りダッシュに、トトロとさつきのバス待ちシーンに、はたまたもののけ姫のたたり神ならぬくされ神など枚挙にいとまがない。
宮崎駿がもっている引き出しを全部ぶちまけたようなものだ。まさに宮崎駿の強引な力技。
どうやら本当に彼はファンタジーなしでは映画を作れないらしい。とファンタジー漬けの自分が言ったところで何の説得力もないが・・・。
<注1>正確にいえば魔女宅もまっとうなファンタジー世界を舞台としている。だが、人間が身近に普通に暮らしているという観点から見たときの「千と千尋」と「魔女宅」の描かれる世界の違いを表すために魔女宅は現実世界が舞台であると書きました。
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