夢のシネマパラダイス356番シアター:神様、神様は本当にいるんですか?
沈黙ーサイレンスー
出演:アンドリュー・ガーフィールド、アダム・ドライヴァー、浅野忠信、窪塚洋介、イッセー尾形、塚本晋也、小松菜奈、加瀬亮、リーアム・ニーソン
監督・脚本:マーティン・スコセッシ
(2016年・アメリカ・162分)T・ジョイPRINCE品川
内容:17世紀、江戸時代。日本で布教活動していたイエズス会宣教師フェレイラが、幕府のキリシタン弾圧によって棄教し消息を絶ったとの知らせがローマに届いた。弟子のロドリゴとガルペはそれを信じられず日本へ向かい、マカオで出会った日本人キチジローの手引きで長崎の隠れキリシタンの村に潜入する。そして村人たちの手厚い歓迎を受けて信仰心を通わせていくが、キチジローの裏切りでロドリゴが捕縛されてしまう。長崎奉行・井上筑後守は布教の無意味さを説き、「転び」=棄教を迫るのだった・・。
評価★★★★☆/85点
信仰心は薄いけど、歴史好きな自分にとって宗教について確信をもって言えることがある。
それは洋の東西を問わず歴史を動かしてきた最大の原動力は宗教だということだ。
「今までの歴史の中で記録されている残酷な罪の数々は全て宗教という名の下に行われている」というガンジーの言葉や、イギリスの歴史家ギボンの「宗教のことを一般人は真実のみなす一方、支配者は便利とみなしている」という言葉の通り、宗教は権力者が国をまとめるための道具に使われてきた。
特に他の神々を認めない一神教が牙をむいた時の禍々しさは、これだけ文明の進んだ今でも変わらない。
人間が生み出した最も純粋偉大な思想が邪悪野蛮な行動を生み出してしまうという点で人間の写し鏡でもある宗教。
だからこそ宗教について知ることは、人を知ること歴史を知ることに繋がっていって面白いのだと思うし、例えばキリスト教とイスラム教はもともとはユダヤ教から派生した姉妹宗教であるとか、インドで生まれた仏教がシルクロードを通って中国、朝鮮半島を経て日本へ渡ってくる間にその土地の風土気候文化や土着の宗教と結びついて変容していくプロセスを知るのも面白かったりする。
その中で、針供養からシロアリ供養あるいはトイレの神様に至るまで自然万物すべてに八百万の神が宿る日本人の宗教観は、世界的にはかなり特殊な部類に入ると思うけど、だからこそ逆に面白いし、日本人として誇りに持ちたいところ。
と、前置きが長くなってしまったけど、肝心の映画について。
信仰心は薄いけど歴史好きな自分としては、250年に渡って数万人が殉死したという教科書でしか見たことがなかった踏み絵などのキリシタン弾圧の実相を映像として見られるというスタンスでしか臨めなかったのが正直なところで・・。
だって、キチジローより早く踏み絵を踏んじゃう自信あるし(笑)、やっぱりそういう一神教信者の内面というのはなかなか分からないところがあって。。映画自体もそこは踏み込んで描いていない面もあったけど、純粋な信仰心を疑ってやまないモキチ(塚本晋也)の顔を見せられるとグウの音も出なくなっちゃうていうのは映画として上手いんだか何なんだかw
でも、スコセッシが足かけ28年かけてようやく作り上げただけあって、ハリウッド映画にありがちなココがヘンだよニッポン描写みたいな違和感はなく。全編台湾ロケだったようだけど、江戸初期長崎の風景もちゃんとしていたし、日本キャスト陣の頑張りもあって160分の長尺を感じさせない作品になっていたと思う。
切っても切り離せない“宗教と暴力”。そしてスコセッシが一貫して描き続けてきた“信仰と暴力”というテーマ。それを音楽のない映像の力だけで結びつけたのはやはりさすがだったし、これからはNHKの大河ドラマもいいけど歴史から抹殺された弱者たちを描いた歴史ドラマをこそ見たいなと思った。
P.S.後日、1971年公開の篠田正浩監督版を鑑賞。
井上筑後守が元キリシタンだったことにビックリw
またエンディングの収め方も、スコセッシ版ではロドリゴが棄教して妻帯するも最後まで禁欲的印象を受けるのに対し、篠田版では妻として差し出された元キリシタンの女の身体を本能のおもむくままに貪るロドリゴを赤裸々に映し出すカットで終わる。
篠田版の方が分かりやすく核心を突いているような気はしたけど、個人的には丁寧でありながらこちらの想像力・読解力の入り込む余白を残しているスコセッシ版の方が好み。
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エクソダス:神と王
出演:クリスチャン・ベイル、ジョエル・エドガートン、ジョン・タトゥーロ、アーロン・ポール、シガニー・ウィーバー、ベン・キングズレー
監督:リドリー・スコット
(2014年・アメリカ・150分)盛岡フォーラム
内容:古代エジプト王国。国王セティのもとで息子のラムセスと兄弟同然に育てられたモーゼ。成長した彼は、父王の信頼も厚く、国民からも慕われていた。ところがセティの死後に即位したラムセスは、モーゼが実は奴隷階級のヘブライ人であると知るや、モーゼを国外追放する。なんとか生き延びたモーゼは、過酷な放浪の末に一人の女性と巡り会い結婚し平穏な暮らしを得る。しかし9年後、そんな彼の前に少年の姿をした神の使いが現れる・・・。
評価★★★★/80点
普段、映画の感想を書く時に、やれ人間ドラマが薄っぺらいだとかキャラクターに深みがないだとかエピソードが単調だとかツッコミを入れてしまうのだけど、しかしそうはいっても1番スクリーンで見たいのは何かといえば、やはり映画でしか味わえないスケール感を体感したいというのが先にくる自分がいたりしてw
そして、文字通りそれがいの一番にくるのがリドリー・スコットであり、たいして面白くもない話を壮大な大作に仕上げてしまう、つまり40点のお話を70点以上に底上げしてしまう力技は決して期待を外さず、SFものや歴史ものとリドリー・スコットが組み合わさるとワクワク感が止まらなくなってしまう(笑)。
で、今回の作品はまさに40点を80点にグレードアップしたようなリドリー・スコット十八番の映画だったように思う。
地平線を否応なく意識させるワイドスクリーンに映し出される映像は「アラビアのロレンス」を想起させるほどスペクタクルな情感にあふれていて、作り話のようなウソっぽさを払拭させてしまうリアリティとともに映画的なカタルシスをも両立させてしまう魅力があったし、これぞ映画であると肯定させてしまう力技は今回も健在だった。
ただまぁ神仏習合の日本人には理解しがたい部分というか、白黒はっきりさせる一神教の容赦のないエグさだとか、モーゼとオサマ・ビン・ラディンは何が違うのかと一瞬思ってしまう違和感だとか、60年前の「十戒」では描けなかった今だからこその視点で切り取る方法論があってもよかったような気もする。
復讐の化身にしか見えない神、信じる者しか救わない宗教、狂信者と紙一重の人間、、う~ん、、ロクなことがないよね
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ノア 約束の舟
出演:ラッセル・クロウ、ジェニファー・コネリー、レイ・ウィンストン、エマ・ワトソン、アンソニー・ホプキンス、ローガン・ラーマン
監督・脚本:ダーレン・アロノフスキー
(2014年・アメリカ・138分)WOWOW
内容:旧約聖書の時代。アダムとイブにはカイン、アベル、セトという3人の息子がいた。が、カインはアベルを殺し、やがてその子孫はこの世に善と悪を広めた。一方、セトの末裔ノアはある日、恐ろしい夢を見た。それは、堕落した人間たちを一掃するため、地上を大洪水が飲み込むというものだった。これを神のお告げと確信したノアは、妻と3人の息子と養女のイラと方舟を作り始め、この世の生き物たちも乗せられるように洪水から逃れる準備をする。しかしそんな中、カインの子孫たちが舟を奪うべく現われるが・・・。
評価★★/40点
宗教映画もここまでこじれるとどうにもならなくなっちゃうな(笑)。
旧約聖書にあるノアの箱舟がもともとどんな話なのかよくは知らないけど、これだけ見ると、マインドコントロールされた親父が自分の家族以外の人間を勝手に悪とみなして見殺しにし、さらに生まれてきてはダメなのだと初孫にまで手をかけようとするも、家族の懸命な説得で我に帰るっていうどーしょーもない話なわけでしょ・・。
まぁ、こういう一神教に特有の信じる者は信じない者を駆逐してかまわないという選民思想は日本人には理解しがたいものがあるので、ちょっとテーマ的にもなじめなかったなぁと。。
唯一、ハリー・ポッター組の中でエマ・ワトソンだけが順調に女優としてキャリアを積んでいってるなと確認できたことだけが救いだった。。
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パッション
出演:ジム・カヴィーゼル、マヤ・モルゲンステルン、モニカ・ベルッチ、ロザリンダ・チェレンターノ
監督・脚本:メル・ギブソン
(2004年・アメリカ・127分)盛岡フォーラム
内容:ローマ兵の虐待を受けながらゴルゴダの丘へ連行され、人々のために祈りつつ処刑されたイエス・キリストの最期を、見る者に嫌悪感を抱かせるほどの暴力描写と当時と同じアラム語とラテン語のセリフなど徹底したリアリズムで描いた問題作。
評価★★/45点
“自分の中にあるパッションは一度も高ぶることなく灯火さえともることがなかった。胸を張ってカミングアウトしよう。この映画に不感症だと。”
あなたはどんな映画が好きかと訊かれたら自分は間違いなくこう答えるだろう。
ぶっちゃけ人殺しをしようが何をしようがとにかく生への執着、生きることへの必死さ、そういう思いが伝わってくる映画を見るのが最も好きだと。
そんな映画が好きな自分にとって、生への執着を超越し、生きることへのひたむきさなどどこ吹く風のまったく対極にあるこの映画を見ることが自分の中にどのような反応をもたらすのか(正確には無反応)ある程度は予想がついてはいた。
しかしその予想を超越したレベルで自分はこの映画に無関心無感動無感覚だった。
殴る蹴る、さらされた血みどろの身体、飛び散る血しぶき、そんな目を覆うような映像の連続を目の当たりにしても自分の感情は喜怒哀楽どちらにも一向に傾くことはなかった。どこまでも平然かつ冷静沈着な自分がいた。エグイ描写でこんなに冷めてていいのだろうかと思ったくらい・・・。
前に座ってたカップルなんて、先に男の方が途中で席を立って、3,40分戻ってこないことに業を煮やした彼女がしぶしぶ席を立っていったり、かと思えば別な一角からはすすり泣く声が聞こえてきたり、、ふ~ん、やっぱ今の時代、男の方がヤワなんだなとかあそこで泣いてるのはクリスチャンなのかねぇとか劇場の反応の方まで冷ややかに見ている自分がいたりして
まずもって、この映画における徹底したリアリティの追及は、自分にとって何ら評価ポイントにはならなかったということだけは確かなようだ。
この映画のチラシには、「いかにもウソっぽい歴史大作」ではなく徹底したリアリティを追求するために世界最高のスタッフが集結した、というふれこみがあった。しかしこの徹底したリアリティの追求というのは一見映画に限りない実感と重みをもたらすと思われるが、それはまた諸刃の剣であるということも忘れてはならない。リアリティを追求しすぎることが今度はかえって映画のもつエンターテイメント性と観客のもつイマジネーションを削いでいってしまうという弱点をも内包しているといえるからだ。
そのことをふまえた上でいうと、人それぞれ好き嫌いはあると思うが、個人的に優れた歴史映画というのは、リアリティの追及と同時に、いかにうまくウソをつくかというその2点におけるバランスがうまくとれているもの。そういう映画が優れた歴史映画だと思う。
その点についてこの映画を評価するならば、優れた歴史映画という括りには全く入れることはできず、完全な宗教映画になってしまっているといえる。キリスト教信者以外何ら見るべき価値はない映画だと断言しちゃってもいいのではないかなと。
クリスチャンでも何でもない自分にとってはホント聖書を読んだときの堅っ苦しさと形式ばった窮屈さと全く同様のものを感じ取ってしまったわけで。
別に聖書を否定したいわけでは決してなくて、史劇とか人間劇といったエンターテイメントやスペクタクルにどううまく聖書を織り込んでいくか、その使い方とバランスが重要だってこと。
その好例としては例えば「ベン・ハー」が挙げられるかな。
とにかくあれだね、小学生の頃よく学校の帰り道でキリストの受難や天国とか地獄についての紙芝居をやってるのに出くわして見たことがあったんだけど、そのときに得たインパクトとパッションの方がメル・ギブソンの映画を見たときより何倍何十倍も大きかったことだけはここに記しておこう。
追記1.あ、そういえば思い返してみると幼稚園と大学がカトリック系のところだったんだっけ・・
2.自分が考える優れた歴史映画とは具体的には「ベン・ハー」や「グラディエーター」といった類の映画です。
3.ああいう虐待シーンを見せられるにつけ、イラク戦争におけるアメリカ軍の虐待など、人間って2000年経っても何にも変わってないんだなぁと悲しくなってしまった。
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ミッション(1986年・イギリス・126分)WOWOW
監督:ローランド・ジョフィ
出演:ロバート・デ・二―ロ、ジェレミー・アイアンズ、レイ・マカナリー、エイダン・クイン、リーアム・ニーソン
内容:1750年、南米奥地イグアスの滝。イエズス会の神父ガブリエルは、布教活動のために滝の上流に住むインディオの村を訪れ、彼らの信頼を得ていく。一方、奴隷商人のメンドーサは、三角関係のもつれから弟を殺してしまう。罪の意識に苛まれる中で神父に帰依し、ガブリエルと共に伝道の道に入るのだが・・・。
評価★★★☆/70点
中南米のサッカー選手はピッチを出入りする時に十字を切って神のご加護を祈り、試合後のインタビューでは神への感謝の言葉を惜しげもなく口にし信仰心をあらわにする。サッカー好きの自分は以前から世界で最も敬虔なクリスチャンは中南米の人ではないかと思っていた。
しかし、なぜ中南米のほとんどの国がスペイン語を話し、カトリック教国なのか、、その裏にある痛ましい歴史を垣間見るとなんとも複雑な気持ちになってしまう。
世界は全てカトリック国になるべきだという強烈な使命感を持っていたスペインとポルトガルの庇護のもとキリスト教布教を目的に設立されたイエズス会。しかし、そんな崇高な理念とは裏腹に、この時代のカトリック宣教師が“侵略の尖兵”の役割を果たしてきたことは事実であり、平和目的のように聞こえる布教という言葉の裏で実際行われていたことは軍事的征服つまり侵略だった。
国を滅ぼして宗教と言語を押し付けるのが1番手っ取り早い“布教”だからだ。
しかもここが一神教のタチの悪いところだけど、彼らには侵略や虐殺をも神から与えられた使命と思い込んでいた。人間も含めたこの世界は唯一絶対の神が創造したもの、つまりもともと神の所有物なのに、その神の存在すら知らないあるいはニセモノの神を信じる無知な恩知らずがいて、そういう連中にキリスト教を教え広めるためなら何をしても構わない=正義の行いをしているという論理だ。
映画の中で枢機卿が「医者が命を救うために手術するように、この土地にも思いきった荒療治が必要なのだ」と豪語するのだが、勝手に手術される方はたまったものではない。
しかも、手術が成功し、理想郷ともいえるコミュニティが作り上げられたと思いきや、今度はスペインとポルトガルの領土の取り分争いから立ち退きを強要され結果虐殺されてしまう・・。
欺まんに欺まんを重ねた宗教の名を借りた侵略について深く考えさせられたけど、が、しかし中南米が完全にキリスト教文化圏となっている現代において、彼らの“正義”が勝ったのもゆるがない事実。
多神教的なメンタリティの方に共感を覚える自分にとっては、切っても切り離せない歴史と宗教の関係の中で宗教によって救われた人の方がもちろん多いだろうけど、宗教によって滅ぼされた人も数多いるのだということを忘れてはならないと思う。
P.S.とはいえ国境を越えて命の危険をかえりみず未知の世界各地に散らばっていった宣教師のフロンティアスピリットと使命感はスゴイの一言で、日本に来た宣教師も不安でいっぱいだったんだろうなと今回の映画を見て思った。。
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十戒(1956年・アメリカ・220分)NHK-BS
監督:セシル・B・デミル
出演:チャールトン・へストン、アン・バクスター、ユル・ブリンナー
内容:1923年にセシル・B・デミルが監督した「十誡」を、デミル自らが再映画化したスペクタクル史劇。エジプト王ラムセス1世は、新しく生まれるヘブライの男子をすべて殺すという命を発した。母親の手によってナイル川に流されたモーゼという名の赤ん坊は、好運にも王女のもとへ流れ着く。成長したモーゼがエジプト王子として勢力を得てきた頃、宮廷では実の王子ラムセスが権力を振るっており、2人は王位と王女ネフレテリの争奪を始める。。
評価★★★/60点
どう見たってちゃちい紅海真っ二つシーン。
しかしなんだかんだ言ってモーゼといえばこの映画の映像しか頭に浮かばないというのはある意味スゴイ。
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