夢のシネマパラダイス188番シアター:ミッドナイトスワン
ミッドナイトスワン
出演:草彅剛、服部樹咲、田中俊介、上野鈴華、佐藤江梨子、平山祐介、根岸季衣、水川あさみ、田口トモロヲ、真飛聖
監督・脚本:内田英治
(2020年・日本・124分)WOWOW
内容:新宿のショーパブで働くトランスジェンダーの凪沙。ある時、育児放棄にあっていた親戚の中学生の娘・一果を養育費目当てで預かることにするが、一果は一向に心を開いてくれない。そんな中、凪沙に内緒でバレエ教室に通うようになった一果は、バレエに生きがいを見出していく。やがて凪沙と一果は次第に心を通わせていくが・・・。
評価★★★★/80点
身体を資本とするトップバレエダンサーのキャリア人生の短さと表裏一体である華麗な身体表現。そこに宿る美しさと儚さ。
そして、熾烈な競争と極限の重圧にさらされる中、華奢な身体ひとつだけで勝負しなければならないバレエは、フィジカルとメンタルの危ういバランスに左右される芸術だ。
そのため、喜怒哀楽を歌と踊りで表現するミュージカル映画と比べると、バレエ映画は魂を削るような悲劇性を避けて通れない宿命にある。
なので、映画にとっての最強の取り合わせは何だろうと考えた時、それはバレエなのではないかと思ってしまうくらい心を揺さぶられ圧倒されてしまう人間ドラマになることが多い。
その点で今回の映画も言葉のないバレエの身体表現ゆえの凄みを存分に感じさせる作品になっていたと思う。
社会の片隅で生きるトランスジェンダーと、母親からネグレクトを受けていた少女というヘビー級に重い設定ははっきり言って反則だけど、頭のてっぺんから足のつま先まで完ぺきなポジショニングとポージングが織りなす美しさを味わうバレエが、トランスジェンダーの苦しみをより際立たせる残酷なモチーフになっていたし、あざとさやベタに陥らないヘビー級の演技を見せた草彅剛とウソのないバレエパフォーマンスを見せた新人女優さんに引き込まれて見入ってしまった。
やや雑な作劇や救いのない展開など、途中からまるでページをめくる手に躊躇してしまうような面持ちにもなってしまったけど、バレエシーンに浄化されたかんじ。
音楽も印象的で、余韻から逃してくれない哀しみがあった。
アカデミー賞も納得。
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彼らが本気で編むときは、
出演:生田斗真、柿原りんか、ミムラ、門脇麦、柏原収史、小池栄子、りりィ、田中美佐子、桐谷健太
監督・脚本:荻上直子
(2017年・日本・127分)WOWOW
内容:母親と2人暮らしの小5の女の子トモ。母が男と出て行き放置されるのは毎度のごとくで、その時は叔父マキオを頼って訪ねて行く。ある日、マキオの家に行くと、初めて会うリンコというマキオの恋人がいた。彼女は性別適合手術を受けて女性となったトランスジェンダーだった。家庭の温もりを知らないトモは、母親以上に愛情を注いでくれる明るく優しいリンコに戸惑うのだが・・・。
評価★★★★/80点
近年急速に耳にすることが多くなったLGBTとかトランスジェンダーとか性同一性障害といった言葉の正確な意味合いや違いを分かっていない自分にとって、今回トランスジェンダーのリンコさんを通して初めてその生き方に思いを巡らせ共感することができたように思う。
ていうか男とか女とか抜きに人として素敵だなと素直に思えた。
あまたの孤独や絶望、葛藤に直面してきたであろう心の傷を美しい心に変えていく強さを感じ取れたし、生田斗真の女性らしい細やかな仕草まで行き届いたあざとさゼロの演技が素晴らしすぎて説得力があった。
あとは何と言っても母親フミコ(田中美佐子)の存在がリンコさんにとって大きかったんだろうなぁって。いろいろなタイプの母親が出てきたけど、絶対的理解者の母親の愛によってリンコさんの優しさと強さは育まれたのだと思う。
一方、対照的に描かれるのが、トモちゃんの同級生カイくんと母親ナオミ(小池栄子)の関係性だけど、とはいえ「ああいう種類の人になることは罪深い」と吐き捨てるナオミのような保守的な視点の方がまだまだ世間一般的なのだろうか。
そしてほんわか幸せな疑似家族のあっけない結末には、う~む、そっかぁ、、と現実に引き戻されてやりきれなくなっちゃったけど、とはいえ考えてみれば親戚なわけだからね。ダメ母は放っといてこれからもトモちゃんをよろしくお願いします。。
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Laundry ランドリー
監督:森淳一
(2001年・日本・126分)シネ・アミューズ
評価★★★★/85点
内容:幼い頃、頭部に傷を負い、脳に知能障害を抱える青年テル。彼は毎日祖母の経営するコインランドリーで洗濯物を盗まれないように見張り続けている。彼にとってはこのコインランドリーだけが世界のすべてだった。そんなある日、コインランドリーに水絵という女性がやって来る。テルは彼女が置き忘れた洗濯物を届けてあげたことから言葉を交わすようになる。しかし、水絵はある日突然故郷へと帰ってしまった。最後にここにやって来たときに忘れたワンピースを残して・・・。
“★4っつ付けたのはオレが別に優しいわけだからじゃないんだぜ。ただちょっとこの映画が気に入っただけだからよ。”
と、サリー(内藤剛志)風に言ってみた。
いや、正直なところこの映画はなんかちょっと気に入っちゃったんだよね。
それしか上手い言葉が見当たらないんだ。なんか、ちょっとなんだよ。。
楽しくもあり、優しくもあり、哀しくもあり、せつなくもあり・・。いろいろな要素が渾然一体となっている。
つまりはこれすなわち“生きる”ってことなのでしょうか。
結局19戦負け続けのボクサーはそれでもボクシングが好きだからボクシングを続けるし、嫁に対する愚痴をこぼすジイさんだって孫ができれば嬉しいし、オバさんは毎度のごとく花を撮りつづけて、その写真を誰かに見せびらかすことを生きがいにするんだろうし、水絵の妹はラクダと付き合うことができて。
そしてテルは水絵と一緒になることができて。
最初この映画を見ていて違和感を持ったのが、登場人物に名前がないことだったんだよね。
テルと水絵だって途中までは、“ボク”と“あの人”か“女狐”だったわけで。
ここで、クローズアップされてくるのが、現代社会に通じる人間関係の希薄さであることは言うまでもない。
そもそもコインランドリーという空間自体がその地域社会における孤立感や孤独感を象徴するのに格好の空間なのではなかろうか。
これはあくまで個人的な印象かもしれないけど、なんか夜にコインランドリーで洗濯するのって寂しい気持ちになるんだよなぁ。昼間は昼間でまた侘しいし・・。銭湯は一人で行ってもそんな気分には全然ならないんだけど、コインランドリーだけはダメなんだよなぁ。。
まあとにかくコインランドリーの持つ閉鎖性と、現代社会における人間関係の希薄さ、これが“ボク”と“あの人”という距離感となって表れていたのではないかと思う。
そしてここで重要だと思うのが、現代社会における人間関係の希薄さは、つまるところ物語の希薄さにつながっちゃうということ。情報がどんどん過多になっていく中で個人ですべてが完結してしまう時代。
現代において、物語はもはや成立し得ないといえるのではないだろうか。
それに加えてこの映画には、コインランドリーという閉鎖性、孤立感が加わる。
この映画を見て感じた「なんかちょっとイイ感じ」という掴みどころの無さというのは、そういうところに原因を求めることもできそうだ。なんかフワフワしたかんじというか浮遊感というか。それがまた逆に現代という時代を象徴しているようで個人的にはすごく買いだったけど。
しかし、よくこの脚本を仕上げたよなぁと脚本・監督の森淳一に感心してしまう。いわば物語が成立しえないゼロの地点から立ち上げているわけだから。
しかもよくありがちなファンタジーに逃げるわけでもなく、あくまで現実世界を舞台としているところがなにげにスゴイ。
いわゆる社会的弱者でありながら、極めて純真無垢な要素を併せ持つテルというキャラクター。しかし、この映画では彼は強き者として描かれる。そして、現代における弱者とは、もしかして水絵に代表されるような他人との人間関係がうまくとれなくなってしまった人々なのかもしれないということをテルに救われる水絵を通して暗示する。
水絵の気持ちも何となく分かるなと感じたのは自分だけではないと思う。
ようするに皆弱いんだよ、人間ってのは。でも弱くても生きていけるんだよ、人間ってのは、助け合えばさ。
そう。“愛”を持てば!ってことをこの森淳一というお方は優しい眼差しでおっしゃってるわけだ。
「私は変わる!」と宣言した水絵。
結局彼女は変われたのかということについてこの映画は深追いしていない。
いや、それよりもそんな肩肘張って変わろうとしなくてもいいんだよ、というようなやはり森淳一監督の優しさが伝わってくる。
そういえばこの映画を見ていて思い出したことがあったんだ。
名作ドラマ「北の国から」でのシュウ・宮沢りえの言葉を。
「昔のこと消せる消しゴムがあるといい・・・」
アダルトビデオに出演していた過去が純・吉岡秀隆にバレてしまい、会ってくれなくなったことについて吾郎・田中邦衛にもらす言葉だ。
もちろんそんな消しゴムなんてあるわけないんだけど、この映画のLaundry<ランドリー>=洗濯=キレイにするということと何か相通じるものがあると思ったので。
結局シュウと純はまたやり直すことになり、水絵もテルによって救われまた生きる力を取り戻す。
そう、人生は何度でもやり直せるんだよな。
なんかちょっとじゃなく、実はすごくイイ映画を見させてもらった気がしてきたぞ。
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