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2015年10月31日 (土)

夢のシネマパラダイス173番シアター:狂気の人

地獄の黙示録

135047_01出演:マーロン・ブランド、マーティン・シーン、ロバート・デュバル、フレデリック・フォレスト、デニス・ホッパー

監督・脚本:フランシス・フォード・コッポラ

(1979年・アメリカ・153分)NHK-BS

特別完全版(2001年・アメリカ・203分)日本劇場

評価★★★★☆・85点オリジナル版/★★★★・75点完全版

内容:ベトナム戦争の最中、サイゴンのホテルから情報司令部へ呼び出されたウィラード大尉は、特殊部隊の作戦将校カーツ大佐の暗殺を命じられた。カーツ大佐は現地人部隊を組織、訓練するためにジャングルの奥地に潜入したが、後方との連絡を断ち、自らの王国を築いてその支配者に納まっているという。ウィラードは部下とともに巡回艇で河をさかのぼりながら、戦場の現実を目の当たりにする。カンヌ国際映画祭作品賞。

“巡回艇の乗員だけではなく、この映画の作り手の理性的判断までもが次第に失われ破綻をきたしていく。しかしそのことがこの作品の失敗を招くどころか、れっきとした勝因になっていることに恐怖を覚えずにはいられない。”

しかし、その恐怖は特別完全版で風前の灯となった。

作り手(ま、要するにコッポラ)の理性的判断は最後まで持続したままジ・エンド。強いていえばド・ラン橋を越える前と後でのオリジナル版の破綻現象の名残がまだ残っているくらいか。

このことははたして見る側の我々にとって良かったことなのだろうか。

ある意味この疑問は愚問である。

そりゃそうだ。完全版とよばれるほとんどがオリジナル版を補填するためにつくられたものなのだから、見る側にとって分かりやすくなることは良いことなはずだ。

この作品の完全版もしかり、明解な答えと主義主張が懇切丁寧に提示されている。

ならず者国家アメリカの狂気を暴く・・・。

ず、ずいぶんとこじんまりとしてしまったな。。というのが個人的印象。

と同時に明解な糸(意図)で構築されていくウィラード大尉とカーツ大佐の物語=懺悔録にオリジナルにはなかった快感を覚えたのもたしかである。

しかし、やはり心のどこかでこれで良かったのだろうかという思いはつきまとってしまうのだった。

そもそもオリジナル版で破綻をきたしていくことがなぜこの映画の勝因となるのか。

それは一言で言ってしまえば“言い知れぬ恐怖”ということに尽きる。

カーツがラストで「地獄の恐怖」を味わうのと同じように、自分も言葉では言い表すことのできない言い知れぬ恐怖をこの映画に覚えた。

言い知れぬ恐怖、、カーツは言う「私は地獄を見た。それを言葉では言い表せない。地獄を知らぬ者に何が必要かを言葉で説いて分からせることは不可能だ」と。同じように自分も、自分が感じた恐怖について言葉で言い表すことは難しい。

なぜならばこの映画には様々なメタファーが隠されていると思うのだが、いわばその様々なメタファーの収束されたものが、自分の感じる言い知れぬ恐怖につながっていると思うからだ。つまり、逆にいえばその言い知れぬ恐怖には様々な意味を見出すことが可能となる。

とにかくひとつ確かなことは、その収束体、重層的かつ重みがあるもの、が自分を鋭くえぐり、自分の生存本能にまで達しているということだ。言い知れぬ恐怖。

この恐怖を体感させたことは間違いなくこの映画にとっての勝利だと思う。

そしてこれが重要なのだが、物語が途中で破綻をきたしていることも言い知れぬ恐怖を喚起する一因となっていると個人的には思ったわけで。

そう感じた伏線としては、まずオープニングシーン。

まき上がる砂塵と黄色い信号弾、燃えさかる炎、この映像に覆いかぶさるようにして映し出される逆さ真上から写したウィラードの顔、天井で回転しているファンと空気を切る回転音。

後々の狂気の暗示でもあるが、不安定で何か言い知れぬ不安に駆られる。映画のオープニングからして不安定要素をはらんでいるわけだ。

次に決定的ともいえるのが、録音されたカーツ大佐の声、「私はカタツムリを見た。カミソリの刃の上を這っている。それが私の夢だ。それが私の悪夢だ。」

不安定、危うさ、、、これまた言い知れぬ恐怖という言葉がピタリとくるが、この映画そのものをカミソリの刃の上を這うカタツムリに例えることができるのではないか。不安定要素をはらんだところから出発したこの映画自体の危うさを。

しかもそのカミソリの刃を手に持っているのはこの映画の作り手なのだ。

そして前半理性を保ちながら進んでいたこの映画は、後半ついにカミソリの刃により裂かれてしまう。

いや、裂かれたというよりはカミソリを持っていた作り手が、手を動かしてしまい裂いてしまったと言った方が正確か。

その視覚的表れがラストで牛を鉈でぶった切る場面だと思うのだ。

つまり、作り手の理性的判断は破綻をきたしてしまったわけだ。

だが、ここで面白いのが、作り手の理性的判断の破綻とウィラードを乗せた船の乗員の理性的判断の破綻がシンクロしていることなのだ。

そしてそれは、カーツ王国の入り口に近い最前線のド・ラン橋における完全な狂気、指揮官が誰かも分からずにイカレたロック音楽とともに戦っているアメリカ軍、に一体化するわけで(実際に映像も狂気じみた印象を受けるようになってくる)。

要はイカレていく彼らの姿をして作り手のイカレた姿もダブって見えてしまう・・・。恐怖を覚えずにいられようか。

カーツはこのようなことを言っていた。

「理性的判断が敗北を招く。何の興奮もなく無機質に人を殺せる男たちでなければダメなのだ」と。

言わずもがな理性の対義語は感情・感性である。カーツはこの両方をも失くしてしまわなければダメだというわけだが(ま、このカーツという男もラストで「地獄の恐怖だ!」と叫ぶわけだけど)、はたしてこの映画の作り手は苦悩(※)に引き裂かれそうになって思わずカミソリの刃を動かしてしまったのか、それともただ無機質な感覚で動かしたのか、いずれにしてもそれを考えるだけでも十分恐いではないか・・・。

 * * * * * * * * * * * * * *

Apocalypsenow01 完全版に対するひとつの問いかけ。

はたして完全版で理性的判断が持続していることは、この映画を観る自分にとって良かったことなのか。

分かりやすくなったという意味では良かったかもしれない。そして“言い知れぬ恐怖”から相当解放されたともいえるわけで。

つまり先の問いを言い換えれば、“言い知れぬ恐怖”が軽減されることが、この映画を観る自分にとってはたして良かったことなのかという問いになる。

答えはもう言わずもがな、明らかにこの映画にとっても自分にとってもマイナスだと思う。

“ならず者国家アメリカの狂気”以外にも様々なメタファーが収束されたものが自分の“言い知れぬ恐怖”につながっているのだとすれば、完全版ではそれはならず者国家アメリカの狂気ただ1本に収束されてしまうわけで、そこに何の様々な意味も見出すことは不可能になるばかりか恐怖さえ感じなくなってしまう。カタツムリは星条旗の上を這っていた、ということになってしまう・・・。

これじゃあ自分の生存本能は安泰だわな。言い知れぬ恐怖にえぐられることもない。

でもそれでいいのかということになると、やはりマイナスっしょ。

 * * * * * * * * * * * * * *

追記(※) 作り手の苦悩とは何かといえば、“イカレる”“不健全”⇔“正気”“正常”の間で作り手自身がブレていることではないだろうか。

まま偽善的倫理がまかり通る戦争というフィルターを通してみたとき、一体何が正気といえるのか何が狂気なのか作り手自身がその狭間で揺れてブレているということになる。

この場合作り手は「彼らの偽善的倫理を超えたところにいる」というカーツにはなれなかったわけだ。実はカーツもそんなところには辿りつけていなかったらしいことがラストの台詞で示されるのだが・・・。

その意味でいえば報道カメラマンのD.ホッパーがカーツのことを「苦悩に引き裂かれた男」と言ったのは非常に示唆深い。

完全版ではそれらをアメリカという国家自体が狂っているということで言いくるめてしまっているだけだ。

映画の中に作り手の姿がダブって見えてしまう怖さ。

完全版にはそれがない。

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タクシードライバー

Mp090出演:ロバート・デ・ニーロ、シビル・シェパード、ジョディ・フォスター

監督:マーティン・スコセッシ

(1976年・アメリカ・114分)NHK-BS

評価★★★☆/70点

 

内容:不眠症のためにタクシー運転手になったベトナム帰還兵トラヴィスは、夜の街を流して走っているうちに、堕落した都会の恥部を目の当たりにして激しい怒りを覚える。また、選挙事務所で働くベッツィとデートにこぎつけるも、彼女をポルノ映画観に連れて行ったため、あっさりと振られてしまうトラヴィス。孤独と不安、そして苛立ちから彼はついに大統領候補の暗殺を企てるが・・・。カンヌ国際映画祭で作品賞。

“よい子のみんなは部屋を明るくしてTV画面から5メートル離れた上で防毒マスクをつけて見ましょうね。”

マンホールの蓋から吹き上がってくる白い蒸気のごとく、タクシーの後部座席から湧き上がってくる猥雑な街のにおいとトラヴィスの身体から放たれる病的な異臭(彼にとっては正義のヒーローのにおい)が、画面から漂ってきて鼻につく。

はっきりいって不快です(笑)。

しかし、フィルムににおいを焼き付けるというのはすごい芸当であることには違いない。

バーナード・ハーマンの音楽がそれに一役買っていたのも特筆に値するし、デ・ニーロはもとよりハーヴェイ・カイテルやジョディ・フォスターの大物ぶり、そしてなによりもスコセッシの偏執的なハンドルさばきがトラヴィスのモヒカンよりなにより印象に残ったのは言うまでもない。

しかし、徐々に狂気を帯びていくトラヴィスの異常な精神状態は、現代版ノーマン・ベイツ(ヒッチコックの「サイコ」)を想起させたけど、ベッツィとの初デートでポルノ映画→彼女嫌がって席を立つ→彼女は冷たくてよそよそしい人なんだ→地獄へ落ちてしまえって、この思考回路はいったい何なんだw

なんだかアキバで刃物振り回して無差別殺傷した男を思い出しちゃうんだけど、常人では理解できないし、このシーン以降、この映画に対する自分の立ち位置がわけ分からなくなってしまったのも確かだ。

半分コメディとして見ていたような、そんなかんじになってしまった・・。

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ザ・マスター

Poster出演:ホアキン・フェニックス、フィリップ・シーモア・ホフマン、エイミー・アダムス、ローラ・ダーン、アンバー・チルダーズ、ジェシー・プレモンス

監督・脚本:ポール・トーマス・アンダーソン

(2012年・アメリカ・138分)WOWOW

 

内容:海兵隊員として第二次大戦に従軍したフレディは戦後、アルコール依存を抜け出せず、トラブルを繰り返しては職場を転々とする日々を送っていた。そんなある日、酔っ払っていたフレディは、港でふらりと忍び込んだ客船で“ザ・コーズ”という新興団体を率いる“マスター”と呼ばれるリーダー、ランカスター・ドッドと出会う。意外にも意気投合した2人はその後行動を共にしていくが・・・。

評価★★★/65点

どういう言葉で形容すればいいのか正直分からないんだけど、1段次元の異なるあちらの世界に逝ってしまった映画を久々に見た気がする(笑)。

次元の違うあちらの世界というのは、要するにマーケティングや観客に全く媚びず、映画という魔物に取り憑かれたかのように自分の撮りたいもの描きたいものに一心不乱に徹したストイックさが異様なレベルで体感できる映画といえばいいだろうか。

コッポラの「地獄の黙示録」とかマイケル・チミノの「天国の門」、またデヴィッド・リンチやキューブリック、テレンス・マリック、ロバート・アルトマンの一連の作品群が挙げられるけど、PTAもその領域に足を踏み入れたかんじ。

ただ、往々にしてこのての映画って小難しくて映画のハードルを超える前に挫折してしまうことが多いんだけど、今回も御多分にもれず

戦争でPTSDになった迷える子羊と宗教団体のカリスマ教祖の心の交流を描きながら結果、本質的には誰ともつながり合えないという残酷な事実を描き出している映画だと一応は見たけど、はっきりいってよく分かんなかったw

ただ、ストーリーはともかく、その美的センスに圧倒される映像美と、ホアキン・フェニックスとシーモア・ホフマンの圧巻の演技対決によって強引に見せ続けられたかんじ。

そういう意味では、これは久々にヤバい映画だぞ!と思いながら見ていたのだけど、何がヤバいんだかよく分からなかったのがまたゾクゾクして。ってオレは一体何を言ってるんだ(笑)。

まぁ、いずれにしてもPTAの映画は今後かなり身構えて見ていかないとダメだな

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渇き。

T0018159q2出演:役所広司、小松菜奈、妻夫木聡、清水尋也、二階堂ふみ、橋本愛、國村隼、青木崇高、オダギリジョー、中谷美紀

監督:中島哲也

(2014年・日本・118分)WOWOW

内容:妻の不倫相手に対し傷害事件を起こして退職し、離婚もして荒んだ日々を送っている元警官の藤島は、別件の殺人事件の参考人として後輩刑事・浅井の監視下に置かれていた。そんなある日、元妻から17歳の娘・加奈子が失踪したとの連絡が入る。しかも残されたカバンからは薬物が見つかったという。藤島は何かに取り憑かれたように加奈子の行方を追うが、交友関係を辿っていくうちに、優等生で学園一のマドンナだとばかり思っていた娘の隠された一面が暴かれていく・・・。

評価★★/40点

映画のつくりとしては、失踪した娘・加奈子を父親が捜し回るうちに知られざる娘の裏の顔があらわになっていく現在パートと、その3年前に加奈子に一途な想いを抱いていた同級生の男子が加奈子にめちゃくちゃにされていく過去パートが交錯して描かれていくのだけど、これがまぁ被写体のドアップを基本視点にクロスカッティングやらカットバックやらフラッシュバック、はたまたフラッシュフォワードに至るまで事細かに多用。しかもこれといった説明もないその短いインサート映像しか伏線として頼るべきものがないという極めて不親切なつくりになっている。

それゆえ、おつむの弱い自分には生々しい暴力とグロさしか残滓として残らない極めて痛い映画となってしまった。

父親のリアルと娘のリアルがむなしくすれ違うことで、繋がりという土台が崩れかけている砂粒化した現代人の孤立感を深く浮かび上がらせようとしたのかどうかは知らんが、どちらにもリアルを感じられないのだからどうにもならない。

実際、感情移入できる人物が誰一人いないのは問題で、加奈子の復讐劇という顛末をもってしても加奈子にすら感情移入できないし、人間の中に潜む内なる二面性をクローズアップするというテーマ性をもってしても内面描写の掘り下げが皆無なのでこれまたホントにどうにもならない・・。

後味の悪さ含めて、これだけ悪意のある映画は久方ぶりに見たな。。

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