太平洋戦争の記憶シリーズ第7号:マリアナ沖海戦
昭和19年6月19日に日本の敗戦は決していた!
マリアナ沖海戦はそういう意味合いを持っていたのだということを今回の第7号を見て実感した。
開戦2年半後の昭和18年9月、防戦一方となっていた日本が定めた絶対国防圏。北は千島列島から満州の中国東北部、南はニューギニアからミャンマー・インドネシアまでと、乏しい防衛戦力では到底カバーできないほど広大な範囲に及んでいたわけだけど、結局本当の絶対国防圏は日本本土なわけで、本土から離れたへき地は、白旗を挙げることを許されず、玉砕するまで、あるいは餓死するまで戦い抜き、文字通り時間稼ぎのための捨て石となったわけだ・・・。
そうやって1年後の昭和19年6月、絶対国防圏内のサイパン島へ米軍が上陸する。
サイパンを含むマリアナ諸島を奪われたら航続距離6600㌔という空飛ぶ要塞B-29爆撃機による本土空襲にさらされてしまうので、なんとか阻止しなければならなかった日本軍は乾坤一擲の戦いを挑む。それがマリアナ沖海戦だった。
しかし、海戦といってもその主体となったのは航空戦力で、マリアナ沖海戦は実質日米の航空決戦だった。
ところが日本側は艦船および航空機ともに総力を結集したものの、倍の戦力を有する米軍の足元にも及ばず、結果は言わずもがなの一方的な敗北。
ゼロ戦をはじめとする航空機の8割を喪失、搭乗員の7割が戦死するという悲惨な有り様で、サイパンも陥落し、制空・制海権を奪われた日本の敗戦はこの時に決まった。
しかし、この負け戦、戦力の規模以外にも戦う前から決まっていた面があるのが哀しい・・。
それは例えばゼロ戦の開発設計ひとつとってもそう。
アメリカは優秀な搭乗員は何にも勝る戦力(ひとりの搭乗員を養成するのに2年の期間と2億円の費用がかかるとされた)とする発想から戦闘機に防弾をしっかり設けていた一方、エンジンの非力を補うために徹底した軽量化のもとに作られたゼロ戦には防弾設備がなかったため、戦争が長引くにつれて次々にベテラン搭乗員が失われていき、実戦経験もろくにない新米しかいない状況になっていた。
そんな中で、マリアナ沖海戦で切り札とされた秘策アウトレンジ戦法(米軍機の航続距離の範囲外に自軍の空母を置くことで敵の攻撃を削ぐ一方で、ゼロ戦の航続距離の長さを生かしてそこから敵空母を攻撃する机上の必勝作戦)において、何の目印もない海の上の700㌔先の敵艦隊にたどり着くだけでも精一杯。。さらに米側の暗号解読や最新鋭レーダーで日本の動きはばっちり筒抜け。。
そういう科学技術、情報技術、防衛開発技術という戦闘前準備をしっかりしていたアメリカと、大和魂一辺倒の精神論しか持たなかった日本。
そりゃ誰が見たって勝敗は分かるよね・・w
でも、ここから降伏するまで1年以上粘りに粘るわけだ。数多の死者を出しながら・・。
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