太平洋戦争の記憶シリーズ第6号:連合艦隊司令長官山本五十六
今回は連合艦隊司令長官山本五十六についてお勉強。
まず連合艦隊司令長官とは、海軍組織の最高官・海軍大臣、海軍作戦を司る軍令部総長とならぶ海軍三長官のひとつで、海軍の実戦部隊を率いる現場最高指揮官。
その中で昭和14(1939)年から戦死した昭和18(1943)年までその任に就いていたのが山本五十六だ。
名前だけは有名で知っていたけど、どんな人かはほとんど知らなかったので、日米開戦や日独伊三国同盟に反対していたことや、真珠湾攻撃の作戦立案をしたこととか初めて知ることばかりで勉強になった。
経歴としては明治34(1901)年、17歳で海軍兵学校に入校。その4年後には日露戦争で少尉候補生として日本海海戦に参加。その際、砲弾の炸裂を食らい、左手の人差し指と中指を失くした。
大正8(1919)年、36歳の時に海軍駐米武官としてハーバード大へ語学留学。2年の滞在中に油田や工業地帯などをくまなく視察し、アメリカの圧倒的な国力を肌で感じたという。中でも航空機の発達には度肝を抜かれ、石油や自動車とともにその重要性を見出した。
その先見性が昭和10年に海軍航空本部長に就いた際に、零戦の開発など航空戦力強化に臨み、航空部隊による真珠湾攻撃の戦果につながっていく。
さて、昭和に入ると、海軍内部ではワシントン軍縮会議(大正10年)における米英10:日本6という戦艦保有率を順守するべきだという条約派(国際協調派)と、そんなの反古にするべきだという艦隊派(対米強硬派)の間で対立が深まるが、昭和6年の満州事変と昭和8年の国際連盟脱退で条約派は粛清されていく。
そんな中、昭和9(1934)年に第2次ロンドン軍縮会議に全権代表として出席した山本。粘り強い交渉に臨むも、10:6の軍備不平等が改められなければワシントン条約を破棄すべしという艦隊派の突き上げを食らい、条約維持という山本の真意とは裏腹に条約破棄が決まってしまう。
この時、アメリカの工業力を実際に見て知っていた山本は、「この条約は日本を3に縛っているのではない。米英を5に縛っているのだ。これをご破算にして建艦競争となれば10:6どころか10:1になってしまう・・」と危惧したという。
そして、昭和13年に陸軍主導による日独伊三国同盟締結の動きが出ると、米英仏が対日経済制裁を課してきたら日本に対抗策はないとして山本は猛烈に反対する。そしてなにより同盟締結となれば対米戦争が避けられない中、国力の差を痛感していた山本は、アメリカと戦争すれば東京は3度は丸焼けになるだろうと一大凶事であるとしてこれにも反対していた。
そんな中で、昭和14年に連合艦隊司令長官に就任するが、その2日後にドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発。昭和15年には日独伊三国同盟が締結され、いよいよ日本はアメリカとの戦争の道へと突き進んでいくことになり、山本も司令長官として対米戦争計画に着手せざるをえなくなった。
総力戦では絶対に負けると読んでいた山本は、半年か1年は戦えるが2年3年となれば分からないとし、短期決戦で講和へ持ち込む連続決戦主義をうたい、開戦約1年前の昭和16年1月には開戦と同時に全航空兵力をもって敵戦力を叩くという真珠湾攻撃の作戦を立案していた。
昭和16年10月の親友・堀悌吉にあてた手紙にはこうある。
“大勢はすでに最悪の場合に陥りたりと認む。今さら誰がよいの悪いのと言ったところで始まらぬ話なり。個人としての意見(対米戦争反対)と正確に正反対の決意を固め、その方向に一途邁進の外なき現在の立場は誠に変なものなり。これも運命というものか。”
昭和16年12月8日、真珠湾攻撃によりアメリカと開戦。
その直後の昭和17年1月の手紙では真珠湾で米空母を撃滅できなかったことを悔やんでいる。
“英米も日本を少し馬鹿にしすぎたるも、彼らにすれば飼い犬にちょっと手を噛まれたくらいに考え、ことに米としてはそろそろ本格的対日作戦に取りかかる本心らしく、日本国内の軽薄なる浮かれ騒ぎは誠に外聞悪きことにて、この様にては東京の一撃にてたちまち縮み上がるのではないかと心配に絶えない。まだまだ真珠湾の勝利では到底安心できない。せめてあの時、空母の3隻くらいも沈めておけばと残念に存じおり候・・・。”
また、同じ1月の手紙では、東京に“爆弾の雨”が降るであろうと日本本土への空襲をすでに予想している。実際、昭和17年4月には東京・川崎などが空襲に遭ってしまう。
そして山本の危惧した予想通り、開戦半年で形勢は逆転。昭和17年6月にミッドウェー海戦で大敗し、8月にはガダルカナル島の戦いで敗退。
同年10月の本土への手紙では、精神論ばかりでしっかりと分析反省をしない仲良しこよしグループ日本軍の隠ぺい体質を批判している。
“こちらはなかなか手がかかって簡単にはいかない。米があれだけの犠牲を払って腰を据えたものをちょっとやそっとで明け渡すはずがないのはずっと前から予想していたので、こちらもよほどの準備と覚悟と犠牲がいると思って意見も出したが、みんな土壇場までは希望的楽観家だから、幸せ者ぞろいのわけだ。”
さらに昭和18年1月の手紙。
“この先は油にしろ食料にしろもっと真面目に考えなければなるまい。艦隊もそれに応ずるような作戦にしなければジリ貧どころかゲリ貧になってしまうだろう。”
そして昭和18年4月、南方戦線視察に赴いていた山本は座乗機が米軍機に撃墜され帰らぬ人となった。
アメリカとの戦争に反対するも最前線に立たなければならなかった葛藤はいかばかりだったか興味深いところだけど、もし終戦時に生き残っていても真珠湾攻撃の首謀者ということで東京裁判ではA級戦犯になったんだろうかね。
“大国といえども戦いを好めば必ず滅ぶ。平和といえども戦いを忘れれば危うい”
山本五十六が残した名言だけど、なんとも含蓄のある言葉だ。
今の日本はどっちだろう・・
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