太平洋戦争の記憶シリーズ第5回:ノモンハン事件
第5号は昭和14(1939)年のノモンハン事件と、昭和17(1942)年の第一次ソロモン海戦。
その中でも今回は特にノモンハン事件が取り上げられたので非常に興味があった。
というのも、父方の祖父が22歳の時、このノモンハン事件に歩兵第27連隊の一員として関わり、九死に一生を得ていたからだ。その時の体験を自分は聞くことなく自分が中学生の時に祖父は他界してしまったのだけど、唯一祖父の手の人差指がなかったことだけが自分が目にした祖父のノモンハンの傷跡だった。
なので今回、ノモンハン事件の詳細を初めて知ることができて本当に良かったと思う。
と同時に、父親から読みなさいと言われながら、ついぞ今まで読むことがなかった祖父の手記も初めて読んで、戦争の恐ろしさと共に、祖父が生き残らなければ自分は生まれてこなかったのだと実感した。
手記によると祖父の部隊がノモンハンに投入されたのは8月20日前後。
5月11日モンゴル軍と関東軍の国境警備隊の小競り合いをきっかけに始まり、大隊の衝突から連隊の派兵、そして兵団の激突にまで拡大した激戦の中で、8月20日前後というのは大勢がほぼソ連側に掌握されつつある最後の段階だったようだ。
しかし、前線はまさに地獄。祖父の手記によると、、
“一口に戦場といっても部隊が数十㌔、数百㌔も進撃後退するような機動作戦の場合と、互いに寸土を争って譲らず、主力の激突を繰り返しながら数㌔の地域に押しつ返しつ数カ月に及ぶ場合とでは、戦場の相貌がその凄惨さにおいて全く異なった景況を呈する。まさに「醒風地に充ち妖気満天を覆う」とは後者の場合である。
腐乱した戦死者の遺骸を乗り越え踏み越えて攻撃し、埋葬された敵味方の戦士の遺骸を掘り起こして陣地を構築する。新来の部隊はこの死臭に悩まされること尋常のものではなかった。全く食事も喉を通らない始末である。
ソ連軍の砲弾をもろに受けた陣地では柳の木一杯に異様なものが無数に垂れ下がっていた。ちょうど一握りの昆布を振りかけたように薄黒い物体が風に揺れ一段と強い臭気が一面に漂っているのである。まぎれもなくそれは人間の臓腑であった。棒切れを持ってきて取り除こうとするのだがゴムのりででもくっつけたように絡み合い、柳の枝にくっついてなかなか取れそうにない。業を煮やした上等兵が短剣で柳を切り払おうと言い出していた。しかしここでは一株の灌木一本でも極めて重要な自然の遮蔽物である。「いや、待て待て、戦死者の霊が守っていてくれとるんだ。」と小隊長はそこに軽機関銃座を作っていくのだった。”
そして、8月30日。祖父の部隊は切込み夜襲の命令を受けた。まさに捨て石覚悟の突撃。
“「弾丸を抜けっ!」小銃の弾倉、薬室に装填されている弾丸は一発残らず抜かれて薬盒に納められる。夜襲戦における日本歩兵のやり方は、徹底した隠密行動に終始することを厳に要求した。突撃においても喚声はおろか声を出すことすら憚った。特殊の場合を除いては銃火を利用することは考えないのである。将兵はただ一握りの銃剣、軍刀にのみ一切の戦力を託すのである。かくして部隊は銃剣をかざし密集隊形をもって敵陣を急襲するのである。
それゆえ夜襲前に弾丸を抜く目的は、銃剣一本に戦意を託すということと、極度の興奮や恐怖などから重要な時機に発砲したりすることを防止すること、あるいは暴発により戦友を殺傷するなど、その目的は自ずから明らかであった。
夜中11時半、夜襲部隊は小隊ごとの密集隊形のまま隊伍につめて敵陣に迫った。敵前5,6百メートル以内に入ると這うように慎重な行動となる。重要なことは与えられた目標を的確に衝くということである。真っ白な太いたすきを十字にあや取った中隊長は部隊の先頭に立ち軍刀の柄頭をかたく握りしめ、磁石で方向を標定しながら一歩一歩部隊を誘導して敵陣を迫る。
が、一挙に100メートルばかり前進して伏せた瞬間。突如第2小隊の縦隊から一発の銃声が響き渡ったのである。敵前350メートル、、突撃にはまだ無理な距離。敵陣からは照明弾が打ち上げられ機関銃の猛射が始まった。かくして作戦は中止。中隊は再び帰ることはあるまいと誓った元の陣地に舞い戻ったのであった。時に31日午前2時。
暴発をしたのは第2小隊のK上等兵であった。この日K上等兵は連絡係としてT軍曹とともに大隊本部に出ていたのだが、中隊に帰れという命令を受けて走り帰った時には中隊は小銃の残弾を抜き終わって進発の間際であった。そのまま所属に復帰した2人はついに弾丸を抜く機会を得ずにしてしまったのであった。しかしいかに弾丸が装填してあったにしても暴発はそう簡単に起こるべき事故ではない。K上等兵が幾度か自決を考えたのもまた無理からぬことであった。
しかし、結果的にはこの暴発が切込み隊250名の生命を長らえることとなった。というのは、翌9月1日、全く予期せざる理由により突如戦線に重大な変化がもたらされたのである。”
それはナチスドイツのポーランド侵攻(事実上の第二次世界大戦の勃発)だった。この9月1日を契機にロシア軍は専守防衛に舵を取り、期せずして劣勢の日本軍に戦いの攻勢的主導権が渡ることになった。が、日本軍に反転攻勢の余力は残されていなかった・・・。
“昭和12年7月7日、盧溝橋に端を発した衝突事件は不拡大方針にもかかわらずついに全面戦争を引き起こし国を挙げて泥沼にもがく事態に進行しつつあった。昭和13年5月、中国軍防衛の要衝徐州を攻略、10月には広東、武漢三鎮の占領と、銃後の人々は提灯行列して浮かれていたのだが、幾百万の軍団の補給兵站は極度に延長し、多くの危険を内包していた。同じく13年7月張鼓峯において手厳しい苦杯をなめていた関東軍はソ連軍の物量と科学戦のお手並みをいやというのほど見せつけられていた。
このような情勢の下にあってノモンハン事件は戦われたのであり、無傷の300余万のソ連軍は悠々戦力を養っていたのである。
その中で頼むべきは日独防共協定の盟友ナチスドイツのソ連けん制であった。が、このような苦境に立つ日本軍閥の頭上に衝撃的な鉄槌が振り下ろされた。独ソ不可侵条約締結(8月23日)である。かかる客観条件の中でソ連軍の8月攻勢は展開された。
サハリンより外蒙に続く数千㌔にわたる国境線は精鋭を誇った関東軍・朝鮮軍・樺太軍を釘づけにし、補給戦力ははるばる支那戦線から戦い疲れた部隊を転用する有り様である。
そんな中、独ソ不可侵条約有効中とはいえ、独軍は突如ポーランドに大軍を進め数日にして首都ワルシャワを占領。9月3日、ついに英仏は対独宣戦を布告した。
しかし、ノモンハン戦線における9月1日以降の攻守逆転の態勢は一朝にして変わるものでもなく、我に攻むるの力なく、敵はもっぱら防御工事に昼夜を弁じなかった。戦線は膠着状態に入ったのである。”
そんな中、9月10日。祖父以下3名に命令が下る。それは敵陣への斥候偵察任務だった。
その数日前から行われていた斥候は3度とも失敗。山の稜線を越えて敵陣を眺めてきた者は一人もいなかった・・。斥候にとって全滅ほど始末の悪いものはなく、いかなる状況下においても最低1名の報告者だけは生きて帰るように手段を尽くさなければならないとされていた。
「斥候帰らざるは犬死である」というのは考えてみれば自明の理ではあるのだけど、かくして祖父たち3人も敵に察知され、祖父は指と左大腿部を撃ち抜かれ動くこともままならない状態になってしまった。
他2名の足を引っ張ってはならぬと考えた祖父は自決寸前まで追い詰められたというが、奇跡的に3人とも無事に自陣に収容された。
そして、それから5日後の9月15日。ついにモスクワで停戦協定が成立。
まさに九死に一生を得た祖父だったが、後にシベリア抑留というさらなる試練が待ち受けていた・・・。
それはまた後の機会に譲るとして、次は第1次ソロモン海戦について少し。
ここで思い出されるのが、小説・映画ともに大ヒットとなった「永遠の0」だ。
映画の中では、ガダルカナル島をアメリカ軍に奪われた復讐戦として、ラバウルに駐屯していた航空隊に出撃命令が出た時に、主人公の宮部久蔵が「ラバウルからガ島まで1000キロ以上あり、現地にたどり着いても帰りの燃料を考えると実質10分程度しか戦闘できない。こんな無謀なことは意味がない」と言って同僚に殴られるシーンとして描かれていた。
そして、宮部の部下が満身創痍で帰路につく途中に燃料切れで海に不時着するも、サメの餌食になってしまうという顛末は印象的だった。
この無謀ともいえる航空出撃によって、歴戦のベテラン搭乗員が次々に失われていくことになるわけだけど、大本営発表ではソロモン海の大戦果!とか、敵艦隊を撃滅!とか良いことづくめで発表していてゲンナリ・・・。
宮部さん、安らかに眠ってくださいw
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