太平洋戦争の記憶シリーズ第2回:ミッドウェー海戦
今回第2号は開戦前史が国際連盟脱退。オペレーションファイルがミッドウェー海戦。
どちらも日本を破滅に追いやるきっかけになった分水嶺といえるけど、日本の進むべき道を狂わせた大元となると、やはり1931年満州事変→1933年国際連盟脱退の流れの中にあるといっても過言ではないだろう。
日本の傀儡である満州国建国に異を唱えた中国が国際連盟に提訴したことによって議論対象となった満州問題。
常任理事国だった日本としては、連盟にとどまって満州国の存在を認めさせることがベストと考え、当初は天皇から政府以下軍部でさえも脱退は望んでいなかったという。それは常識的に考えれば、もし脱退すれば日本の起こした満州事変が正義の行為ではなく悪だったと自ら認めるようなものだから当然といえば当然なんだよね。
なのに、なぜに誰もが望まぬ道へと突き進んでいったのだろう・・・。
まぁ、そもそものところで満州事変自体が関東軍の謀略だったわけだから、やましいことを正当化し続けるって絶対どこかで無理が生じると思うんだけど・・。その中で脱退回避を使命として交渉に当たったのが、創刊号で日米交渉の最終案である日米諒解案を蹴った一大戦犯ともいうべき松岡洋右。
ところが、日米諒解案を否認する8年前のジュネーブでは文字通り孤軍奮闘の働きをしていた、らしいw
また、中国に租界などの権益があり、さらに極東での共産主義の拡大を防ぐ防波堤になると考えていたイギリスは日本の満州での軍事行動や各種権益を黙認していたらしく、そんな中で和協委員会という日中米英ソで話し合って和解調停する案を持ちかけてきた、、、
のだが、なななんとそれを本国の内田康哉外相が頑なに拒否!
それを知ったイギリスからさらに米ソを外した妥協案が出されるもそれも拒否!
ってなんやねんお前はーwwホントの戦犯は松岡じゃなくて内田かぁ!?
この内田が蹴った理由というのがすごい知りたいけど、妥協は絶対ダメで連盟脱退せよという国内の強硬な世論(当時の新聞を見ると驚くほど世論の方が脱退一色に染まっていたことが分かる)に押されてのことだったのか、外相という立場から中国の情勢が逐一入ってきて脱退しても大丈夫だと踏んでいたのか。。
結局、この松岡vs内田は内田に軍配が上がり、さらに熱河作戦(熱河地方への侵攻作戦)が決行されたことで選択肢が脱退以外になくなってしまった。
そもそもこの熱河作戦にしたって、国際連盟での交渉真っ最中に新たな侵攻作戦が裁可されること自体おかしな話で、連盟で非難勧告が出た後に新たな戦争行為に出ると連盟は経済制裁できるという条項があることを政府は百も承知してたはずなのにそれが決行されちゃうって、、関東軍の暴走はもはや誰にも止められなくなっていたということなのだろうか。。
さて、ここで国際連盟脱退について、大阪毎日新聞に載せられた言論人・徳富蘇峰のコラムが興味深かったので引用しておく。
“およそ自衛には狭義の自衛と広義の自衛がある。例えば、家の戸締りや火の用心や泥棒の侵入を防ぐのは狭義の自衛だ。しかし、これのみでは一家は決して安全とはいえない。例えば軒下で焚き火をされたら?家のそばに犬猫の死骸が置かれていたら?隣家に賭博場が開かれ、昼夜問わず喧噪されたら?近所で石合戦をなし、そのつぶてが家に投入されたらどうする?
我らは明治27年の日清戦争においていかに苦労し、つづく明治37年の日露戦争においていかに国家の全力を傾けつくして、ようやくその目的の一部を達し得たか。
日本と満州とは切っても切れない縁故がある。しかるに満州より我が日本人を駆逐し、その権益を剥奪しようとしたではないか。ここにおいて我らは敢然として起った!それは全く止むにやまれぬ生死に関わる極所に押しやられたがためだ。もしこれを自衛と言わなければ、世の中には自衛なるものはあるまい。
世人は連盟脱退の結果、列国が日本に対し経済封鎖を行うであろうと言うが、そんなのは容易にはいくまい。第一次大戦の時だって経済封鎖は十分に実行されなかったではないか。今日どの国が日本に向かって命がけの戦争を敢えてしようとするだろうか。その決心なき以上は封鎖は決して実行しうるものではない。
しかも実際我らは決して封鎖には辟易しない。人を呪わば穴二つということわざがあるように、封鎖で困るのは日本ばかりではない。困難は双方にあるし、相手方の方がより困難だろう。
もし万一封鎖があるならば、我らはかえってそれを好機として自給自足の国家的生産の興隆を図るべきだ。日本は決して食料にも燃料にも窮さない。禍い転じて福と為すの方策をめぐらす絶好の機会なのである。”
大正昭和を代表する言論人からしてこんな論調なんだから参っちゃうよね
しかし、「満蒙は日本の生命線である」という松岡の言葉通り、それまでに多大な犠牲を払って手に入れた大陸の権益に対して絶対手放すわけにはいかないという思いが世論含めて強かったんだろうね。
でも、ホントに新聞世論がここまで率先して戦争推進していたとは想像を超えていた。
それに関連して、ミッドウェー海戦を伝える2面記事で大政翼賛会の刷新についての記事があったけど、国防訓練の徹底と国民思想の統一を部落会・町内会を通して全国民に行き渡らせ、一億打って一丸となり帝国の使命を果たさなければならないとある。
まさに蟻の子一匹通さぬ全体主義の中で、異論を差し挟む余地や空気などなかったことが窺われる。
さて、次はようやく本題のミッドウェー海戦だ。
日本の歴史的大敗北に終わり、文字通り太平洋戦争の流れを変えた分水嶺となった一戦。4隻の主力空母を投入するも全滅、3千人戦死、3百機の航空機が空の藻屑と消えた。
そもそもミッドウェー島攻略作戦は、山本五十六連合艦隊司令長官が相手空母撃滅のために立案したものだったが、ミッドウェー海戦の1ヶ月前に行われた珊瑚海海戦が世界初の空母戦だった。つまり軍艦戦=相手が見える戦いから空母戦=相手が見えない戦いへと海戦の質が変わったわけだ。
では、相手が見えない戦いに勝つにはどうすればよいかといえば、先に相手を見つける以外にはない。つまりそこで最も大きなポイントとなるのは、何よりも情報なはずだ。
ところが、日本はそれを軽視した。
暗号を解読されアメリカ側に作戦の詳細が筒抜けになっていた時点で勝敗は決していたともいえるけど、作戦実施前の図上演習で4隻空母のうち2隻沈没1隻大破という結果になったにもかかわらず作戦を見直さずに強行したり、索敵で肝心の索敵機が雲の上を飛んだため敵空母を見逃してしまったり、相次ぐ兵装転換命令のドタバタ劇とか、ずぶの素人の自分でもなんで??って思うほど信じられないような怠慢とミスの連続には目を覆いたくなるばかり。
田原総一郎いわく、「日本の悪いところが全部出た戦い」だったといえる。
しかし、歴史的大敗を喫したにもかかわらず、新聞では米空母撃沈!とか刺し違え戦法成功!とか全く逆の大戦果として報道されている。ミッドウェー海戦が6月4日で、今回の新聞紙面が6月11日だから1週間も間が空いてたのか。。大本営ではどうやって隠蔽しようかあーでもないこーでもないやってたんだろうね。生き残った将兵も外部に事の真相が漏れないように本土に戻っても隔離されたらしいし・・。
これが昭和17年だから、この後3年も何ら真実を伝えられることなく、いってみれば茶番劇に付き合わされ数多の尊い生命をなくしながら破滅の道を突き進んでいったんだね。。なんともやり切れないね・・。
で、今回の国際連盟脱退とミッドウェー海戦の失態をみて思うことは、行き当たりばったり感がハンパないというか、結局のところ組織と意思の不統一に行き着くのだと思う。
そしてその綻びが限界に達すると、根拠のない精神論で覆い隠し、そのツケは全部国民に回ってくるという悪循環。その最たるものが特攻作戦と玉砕戦だろう。
やっぱ戦争はダメだ。。
さて、ここからは太平洋戦争のお勉強よりも断然面白くてたまらない新聞アラカルトー!!
今回は昭和8年の大阪毎日新聞の社会面で、当時の事件記事が目を引いたけど、殺人事件って毒を盛るのが主流だったんだね
そして、ミッドウェーより何より1番驚いたのが、大阪で27歳の主婦が服毒自殺した事件で、その自殺原因が夫がダンスに明け暮れていることにほとほと嫌気が差したからだって(笑)。マジかよー!どんな時代だったんだ・・。
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