夢のシネマパラダイス134番シアター:風立ちぬ
風立ちぬ
声の出演:庵野秀明、瀧本美織、西島秀俊、西村雅彦、スティーブン・アルパート、風間杜夫、竹下景子、志田未来、國村隼、大竹しのぶ、野村萬斎
監督・脚本:宮崎駿
(2013年・東宝・126分)盛岡フォーラム
内容:少年の頃から飛行機に憧れていた堀越二郎は、夢の中で憧れのカプローニ伯爵と出会い、航空設計士になることを決心する。1923年、東京帝大に進学していた二郎は関東大震災に遭遇、列車の中で出会った里見菜穂子と女中さんを介抱する。その後、二郎は名古屋の飛行機工場へ就職し、念願の設計士としての道を歩み始める。1933年夏、なかなか思い描くような戦闘機を作れないでいた二郎は、訪れた軽井沢の避暑地で菜穂子と再会する・・・。
評価★★★☆/70点
今までの映画人生で、同じ映画を2度劇場で見たのはただの一度しかない。
小学3年生の時に見た「植村直己物語」だ。西田敏行演じる主人公の命をかけた冒険譚にすっかり心を奪われ、親にせがんでまた見に行ったのを覚えている。
そして、あれから30年。ついに唯一の記録が破られる時がきた。
それは、ジブリ史上最もキレイな映像美に彩られた宮崎駿の長編引退作をしっかと目に焼きつけておきたいという思いと、その一方で見終わった時に感じたモヤモヤしたなにかスッキリしないかんじは何なのか、そして宮崎駿は泣けて自分は泣けない理由は何なのか(笑)、この矛盾をはっきりさせたかったからだ。
で、やっぱり2度目も泣けなかったけどw、シンプルな手描きの線が生み出す柔らかな質感とぬくもりのある絵柄、シャンとした人間の美しい佇まい、そして人の声で表現した効果音の新鮮な響きの心地良さと、相変わらずこの映画のハンドメイドな映像・技術面には魅了されまくりで見入ってしまった。
さて、となると問題はストーリーということになってくるけど、構成としては堀越二郎と菜穂子さんの恋愛ロマンスと、美しい飛行機を作りたいという夢を追いかける二郎の姿を描いた飛行機ロマンの2パートに分けられると思う。
まず、前者についていえば、まさかジブリアニメで“白馬の王子様”という言葉を聞くことになろうとは思いもしなかったけど、いいとこのお坊ちゃんといいとこのお嬢さまのあれよあれよという間どころではない、あれっ!?という間の電撃結婚はあまりにもつっかかりが無くて感情移入しづらかったのが正直なところだ。
ただ、菜穂子さんの場合は不治の病であった結核にかかり余命いくばくもなく、二郎の方もカプローニから「設計者として創造性を発揮できる時間は10年」と宣告されており、とにかく二人とも時間がない。
その中で、菜穂子さんは二郎に結核を伝染してしまう危険をはらみながらも側に寄り添い、二郎は菜穂子さんにとって有害な死の煙を蔓延させようとも創造的頭脳を働かせるためタバコをプカプカと吸う。
時間のない者同士がお互い人生の中で最も精一杯に美しい花を咲かせ生きたひとときを共有できたのは最高に幸せなことだったんだろうということはよく分かった。
つまりこれは、“夢”と“愛”という名のエゴに憑かれた男女のかくも残酷で美しい物語なのだ。
だとするならば、ラストの夢のシーンで菜穂子さんが二郎に対し顔をほころばせて投げかける一言が当初は「あなた、来て・・・」となっていたというのはストンと胸に落ちてくる。
創造性を尽くせる持ち時間10年を使い果たした二郎を“青き清浄の地”、カプローニいわく夢の王国で永遠に一緒に過ごしましょうというのは、この残酷で美しい物語を完結させるには最も納得のいくふさわしいセリフのはずだ。
ところが、この映画は「あなた、生きて・・・」を選択した。
これは、愛というエゴに憑かれた罰としてあの世へ行った菜穂子さんが、さらに冥界へ愛する人を引きずり込むというのは罪で怖いし、「生きて・・・」といわば二郎に赦しを与えることが菜穂子さんにとってのせめてもの罪滅ぼしだったともとれる。
一方、夢というエゴに憑かれた二郎にとっては、ゼロ戦という自分の夢の残骸で埋め尽くされたれん獄のような現実世界に押し返され、そこでたった一人で生きていくというのは天罰以外の何ものでもないわけだ。
つまり、そこで生きていくことが罪滅ぼしになる、いやそうならなければならないし、そう思わせなければならないはずなのだ。
しかし、そこで問題となるのはこの罪滅ぼしが何に対するものなのかということだと思うのだけど、それはこれを見るかぎりでは菜穂子さんに十分かまってあげられず命を縮めてしまったことに対する贖罪でしかなく、人殺しの兵器を作ってしまったことに対する贖罪はみじんも感じられない。
それはなぜかというと、二郎に世界に対する当事者意識が決定的に欠けているからだ。
それが言ってみればこの映画に感じるモヤモヤしたスッキリしない何かなのだと思う。
例えば二郎は列車や車の窓越しからしか世の中の混乱(大恐慌)や不穏な空気(戦争)を眺めていない。また、戦闘機を作っていながらどこと戦争するんだろうとのんきなことを言い、はては自分が特高に目をつけられている理由すら分かっていない(軽井沢で出会ったドイツ人つながりか)。
自分の作った飛行機の飛ぶ姿を下から眺めることしかできないのと同様、どこまでも三人称視点でしか世の中を見ていないのだ。
道端にたたずむひもじい子供にお菓子を施そうとして、そういう行為は偽善だと同僚に指摘されてもまともに言い返せないし、そういう子供たち全てに食べさせてあげられるほどのお金を喰らって戦闘機を作ることの矛盾についてもその同僚に言わせ、軽井沢で会ったドイツ人と戦争について語る時でも二郎が意見を口に出すことはない。
あるいはもしかするとラストのカプローニとの会話において、自分の作った飛行機は一機も戻ってきませんでしたと嘆くところでも、そこで散っていったおびただしい数の若者の命のことなど頭にはないのかもしれない、とさえ思えてきてしまうくらいだ。
つまり二郎はそういう悩みや葛藤すら持たない傍観者、純粋無垢な夢追い人としてしか描かれておらず、自らの追う責任や罪をそれとして自覚していない人物なのだ。
これは問題である。
やはり、この映画を手放しでホメそやすことはできないなと自覚する・・・。
しかし、それを分かった上で二郎をそういうふうに描いたのはどのように理解すればいいのだろう。。
そういうふうにとは、つまり飛行機とは呪われた夢であるというカプローニの言葉が意味するところである、美しい飛行機を作りたいという夢は美しくない世界を作ることにつながってしまう矛盾に対し盲目になることといえるけど、そこから目を背けずに向き合うこと、すなわち矛盾の中で生きることこそが人間であるというのがナウシカでありもののけ姫ではなかったか。
そこからすると今回の作品は、技術者にとって持てる技術を最大限表現できるというエゴと快楽を満たすものは戦争なのだという逆説の方にしか真を見出すことができないものになってしまっている。
その点で今回のキャッチコピー“生きねば”は、漫画版ナウシカのラストカットの言葉である“生きねば”や、もののけ姫のキャッチコピー“生きろ”とはなにか異質なかんじを受けてしまう。
思えばナウシカは夢の中で幾度となく虚無(絶望)と対峙した。そしてそれを自分の中に受け入れることで生きることを肯定した。それは自分たちが滅びゆくことが宿命づけられているとしても生きていくことそのものに価値があるという考え方だ。
しかし、二郎にはそのプロセスがない。
自分の追い求める夢をひたすら夢想することで夢の外側にある虚無を無視しつづけた結果、サバの骨にまで美のイメージを見出す美しさへの陶酔と、それ以外のものは容赦なく排除する残酷さだけを際立たせてしまった。
言うまでもなくその中には菜穂子さんの命も含まれているだろう。
しかし、菜穂子さんを失ってまで形にした自分の夢が、ゼロの残骸と国の破裂という美しくない世界をまざまざと見せつけられるに及んで、虚無と否応なく対峙せざるをえなかったことは想像にかたくない。
しかし、映画はその肝心なところを描かないまま、菜穂子さんに「あなた、生きて」と言わせてフェードアウトしてしまった。
これだと二郎は自ら格闘して生きることを肯定したのではなく、生きることを促されそれに従ったまでにすぎない、生ぬるい妥協の産物としか見れなくなってしまう。
もし「あなた、来て」と言われていたら、それを制して「自分は生きねば」と言うことができただろうか、、いや、嬉々として菜穂子さんのもとに駆け寄って行ったのではなかろうか・・・。
清涼感のあるファンタジックな夢想に身を任せるのはたしかに心地が良い。しかし、そこから目覚めた途端、“生きねば”となるのはあまりにも飛躍にすぎる。
あるいはそれに足るモチーフを描く覚悟が宮崎駿にはなかったというしかない。
“風立ちぬ、いざ生きめやも”、、、菜穂子さん、風になって行っちゃったなぁ、とりあえずは生きるしかないのか!?
それが一番しっくりくる(笑)。
Posted at 2013.10.12
« 夢のシネマパラダイス472番シアター:テルマエ・ロマエ | トップページ | 夢のシネマパラダイス563番シアター:はやぶさ三番勝負/宇宙兄弟 »
« 夢のシネマパラダイス472番シアター:テルマエ・ロマエ | トップページ | 夢のシネマパラダイス563番シアター:はやぶさ三番勝負/宇宙兄弟 »
コメント