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2007年11月13日 (火)

夢のシネマパラダイス357番シアター:7月4日に生まれて

Born 出演:トム・クルーズ、トム・べレンジャー、キーラ・セジウィック、ウィレム・デフォー

監督・脚本:オリヴァー・ストーン

(1989年・アメリカ・145分)NHK-BS

評価★★★★/80点

内容:帰還兵の手記をベースに、オリヴァー・ストーンが「プラトーン」に続いて再度ベトナム戦争を描いた話題作。アメリカの独立記念日である7月4日に生まれたロン・コヴィックは、海兵隊員に憧れ、高校卒業後に志願してベトナムへ赴く。しかし、そこで女子供を殺しまくる米軍の実態を目の当たりにした彼は、誤ってアメリカ兵を殺してしまい軍から秘匿を命じられた。戦場の悲惨な現実に打ちのめされる中、自らも下半身麻痺の重傷を負い、ようやく帰国する。そして祖国で彼を待っていたのは、車椅子での闘病生活と反戦活動の嵐だった。

“「戦う」ことしか知らなかった男が、「闘う」ことに気付き本当の自分を取り戻すまでの軌跡。”

個人的に勝手な解釈をすると、“戦い”とは相手をとにかくフィジカルで打ちのめす、打ち倒すという相手との勝ち負けを決するたたかいのことであり、そこには少なからぬ場合において命のやりとりを要する。

つまり、“戦い”には死の問題、要は存在を消し去る、停止させるという意味をも内包しているといえる。

相手なしでは成立しない“たたかい”でもある。

それに対し、“闘い”とは死と向かい合わせの“戦い”ではなく、生きることと向き合う中でのたたかいとでもいえばいいだろうか。自分が自分としてよりよく生きていくためのたたかいであり、よりメンタルな要素が大きいと考えられる。

そして“闘い”には生の問題、つまり存在を証明させる、確立させるという意味を多分に含んでいるといえる。

これは相手がいなくても成立しうる“たたかい”であり、より自分自身にシフトしていくものであるともいえよう。

そしてこの映画を観たとき、トム・クルーズ扮するロニーはまさに「戦い」のエリート、「戦う」ことしか知らない男だった。

これは7月4日に生まれたということや、熱血偏向ママをはじめとする周囲の環境にもよるだろうが、それを象徴するものとしての星条旗やリトルリーグでのホームランシーン、そして印象的なレスリングでの敗戦シーンが描かれていたのだと思う。

そして、戦いを宿命づけられたロニーは何の躊躇もなく海兵隊に入隊し、遙か彼方の地で行われているすぐ終わるであろうとたかをくくっていたベトナム戦争へと参加していくわけだ。

祖国のために尽くし、熱血ママが言うところの神のために共産主義を阻止するため、勝利の代価として犠牲を払うこともいとわずに彼は意気揚々とベトナムへ向かう。その犠牲の本当の意味など全く分からずに・・・。

そしてベトナムからの帰還を通して彼は闘うという彼にとっての開かずの扉を少しずつ開けていくのである。

相克を生んだ家族との闘いから逃亡した後は徹底してロニー自身の中での闘いに焦点を当てて描いているが、重要な生の問題を真摯かつ丁寧に描いており、彼が言うところの本当の闘いに観る側の自分もひきこまれた。

そして彼は本当の自分を取り戻した。

ラストのセリフのとおり彼はやっと帰ったのである。HOMEへ・・・。

しかし敢えていえば、演じるトム・クルーズが“戦う”気満々すぎて、ちょっと“闘う”方を忘れちゃってるかなというかんじはしたかな・・・。

追記:1977年のピュリツァー賞写真部門で「三軍統合記念日のパレード」というフィーチャーが受賞している。その中の写真「回想の時、戦争の犠牲者」は非常に印象的だ。

ベトナムで両足を失った車椅子に乗っている黒人男性がしっかりと我が子を抱いて見物席から遠く離れた所でパレードを見ているところを写したもの。

約5~6万人の米軍の死者を出したアメリカのベトナム戦争、それ以上に癒やされぬ悲しみと痛みを抱いた帰還兵がいたこともたしかなのだ。

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(おまけ)

西部戦線異状なし

4933672224244 出演:ルイ・エアーズ、ウィリアム・ベイクウェル、ラッセル・グリーソン

監督:ルイス・マイルストン

(1930年・アメリカ・100分)NHK-BS:完全オリジナル版131分

評価★★★★★/100点

内容:第一次世界大戦にドイツ軍の一兵卒として従軍経験のあるエリッヒ・マリア・レマルクの同名小説を映画化し、アカデミー作品、監督賞を受賞した反戦映画。1915年、第一次世界大戦中のドイツの田舎町。学校の教室では老教師が生徒たちに愛国精神を説いていた。生徒たちの血潮は燃え、彼らは進んで入隊志願する。入隊した若者たちは、かつて町の郵便配達人だったヒンメルスト曹長にしごかれ、戦場に赴いた。やがて仲間たちは次々に戦火の犠牲になっていく。。。ちなみに戦闘シーンはカリフォルニアの広大な牧草地で2000人のエキストラを動員して撮影。また、主演のルイ・エアーズは第二次世界大戦中、良心的戦闘拒否を表明したため非難を浴びている。しかし後に看護係として兵士の治療に当たっていたことが分かり名誉は回復された。

“スピルバーグがやろうとしたこともキューブリックがやろうとしたことも、オリバー・ストーンもサム・ペキンパーもジャン・ジャック・アノーもリチャード・アッテンボローもすべてこの映画の中に詰まっている。”

戦争映画の教科書、古典という言葉がピッタリの作品。

その中に込められた普遍的で痛烈な反戦メッセージのインパクトはもちろんだが、とにかく映画としての完成度の高さに度肝を抜かれる。

セルゲイ・エイゼンシュタインの「戦艦ポチョムキン」からわずか5年、無声映画からトーキーへ大転換するちょうどその時、1930年に作られたこのトーキー映画は、カットバックから移動撮影に至るまで様々な映画技法を駆使しているのはもとより、トーキーはただの音声付き映画ではないということを十二分に認識した上で、音を効果的に演出に組み込むことで、臨場感漂うスペクタクルともいうべき戦場シーンから劇的な1カットに至るまで想像力に富んだトーキーを表現することに成功している。

すでにこの時点でトーキー映画の完成形を見せていることには感嘆するほかない。

この演出だけをとっても後の戦争映画に与えた影響は計り知れないが、この映画を反戦映画の傑作として長く語り継がせているのは1つ1つのエピソードによるところも大きいだろう。

ネズミのように塹壕を這いずり回る兵士たちが、営舎で砲弾の嵐で大量に逃げ出してきた本物のネズミを嬉々としてスコップで叩き殺す一見シュールなシーンや、無意味な大量の名もない死が繰り返される殺し合い大会と化した戦場において、原っぱに囲いを作ってその中に素っ裸の国王や将軍を入れてこん棒を持たせて観戦料とって戦わせて勝敗を決めた方がいいとジョークを飛ばすシーン、また町の良き郵便配達夫が鬼軍曹へと変貌をとげたり、学校の教室で目をランランと輝かせながら愛国心を説き、兵士は女のコにモテモテで、なおかつ祖国の英雄として称賛を受けることができると“教育ではなく戦場へ!”生徒を駆り立てる教師の姿、、、、そしてラストのあっけない幕切れに流れる“西部戦線異状なし”という電文。

1つ1つのエピソードを貫くのは痛烈なシニシズムであり、それが戦争の不条理とバカバカしさを如実にあぶり出していく。

何度も言うようだが、スピルバーグもキューブリックもオリバー・ストーンも、、、etc.全ての戦争映画の原点、ネタ元はここにある!

空気を切り裂いて飛翔してくる耳をつんざくような砲弾音が今も耳について離れない・・・。

P.S. 第一次世界大戦の戦勝国でありながら、そのアメリカ映画がドイツ軍を描くというところにアメリカ映画の世界視野に立ったものづくりの底力を感じ取れる(最近ではイーストウッドの「硫黄島からの手紙」etc.)。

しかし、この映画が作られた10年後には数千万もの死者を出す世界大戦が起きてしまったわけで、、、今も絶えず世界各地で戦火がやむことはない。

なんか空しくなっちゃうけど、こういう映画を観て思い出そう。

三歩歩けば忘れてしまうニワトリ、、、ならぬ無知な人間にならないためにも。

そう、負傷で一時帰郷した主人公が直面した、戦争の現実を全く知らないナショナリズムの塊と化した若者たちのような(それは取りも直さず出征前の主人公の姿でもあったのだ。)。

とにもかくにも後世に残していかなければならない映画です。

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