夢のシネマパラダイス295番シアター:ラストサムライ
出演:トム・クルーズ、ティモシー・スポール、渡辺謙、ビリー・コノリー、トニー・ゴールドウィン、真田広之
監督・脚本:エドワード・ズウィック
(2003年・アメリカ・154分)2003/12/29・盛岡フォーラム
評価★★★★★/95点
内容:1876年、近代化を進める明治政府が、勝元盛次ら武士の残党を一掃しようと、南北戦争の英雄オールグレン大尉を軍事顧問に招聘。が、オールグレンは勝元との戦闘で捕らわれの身となり、やがて崇高な武士道精神に感化されていく。
“昨今の日本のサムライ映画からは霊の存在を感じ取ることができなかった。しかし、まゆつば物と思われたこの舶来品にまさか霊が宿ってしまうとは・・・。”
いにしえの日本の霊的な雰囲気、サムライの理想郷、そしてサムライ。
久々に自分のインスピレーションは大いに震えた。激震。
しかしその霊的な雰囲気にしてもサムライの理想郷にしてもつくりものであることには違いない。ましてやあの1870年代後半という時代にそんなものは跡形もなく消滅してしまっていたことは想像に難くない。勝元をはじめとするサムライたちにしても、あれは完全なフィクションであるといってよい。
だが、それをまがいものという一語で片付けてしまうことのできない何かがこの映画にはあった。
それは何なのか。
例えば、初めてオールグレンと通称ボブが村の中を歩くシーンで、遠くの方からかすかに子供たちがわらべ歌の「だるまさん」を歌って遊んでいる声が聞こえてくるのだが、その場面でいきなり自分の身に何かが“来た”。
こやつらマジだ。
そして僕の五感は一段階レベルアップしインスピレーションは研ぎ澄まされた。まさに臨戦態勢に入ったのだ。
この映画はしっかと見ておかなければ。目に焼きつけておかなければと、あら捜しに躍起になっていた自分にケリをつけ、再度きちんと襟を正したのでした。
自分と映画との間に確かな信頼関係が結ばれた瞬間だったのです。
そして再度襟を正した甲斐はあった。
フィクションであること(歴史的背景は史実だけど)などもうどうでもよくなっていた。
そして、「グラディエーター」でも述べた通り、必死に生きようとする者たちの思いがひしひしと伝わってくる映画がやっぱり好きなのだという逃げも隠れもしない思いでいっぱいになっていた。
“必死に生きる”、それは確実な存在感を生む。そしてフィクションであるという意識は完全に消え去る。
そんな映画と出逢えたときほど心揺り動かされることはない。
思えば「グラディエーター」のストーリーも完全なフィクションだし、「ブレイブハート」にしてもしかりである。歴史的背景の一部が史実であるにすぎない映画たちだ。
そしてこれは「ブラックホーク・ダウン」で確信を得たのだが、映画とはそうあるべきものなのではないだろうか。
すなわち歴史的事実を客観的に伝えるのは映画の役割ではない、主観がズバズバ入ってこそ映画なのだ!という思いが近ごろことさらに強くなってしまった。
大学でずっと歴史を専攻し考古学畑を歩いてきたからなのだろうか、あるいは「ブラックホーク・ダウン」に幻滅してしまったからなのか・・・。
まあ映画が社会に与える影響という点も考えなければならないのだろうけど。。
ところでさっき“必死に生きる”映画が好きだと言ったけど、この映画に出てくるサムライははたして必死に生きていただろうか。ともするとサムライスピリット、武士道というと例えば切腹に代表されるように、“潔く死ぬ”という感があり、それはまるで死に急いでいるかのように受け取りかねないし、TVドラマの時代劇や映画でもそれは武士のしきたり、伝統であるといった暗黙の了解で片付けられてきたかんじがする。
しかしこの映画は日本映画がとうの昔に描くことをやめてしまったサムライスピリット、あるいは武士道といったものを恥ずかしげもなく真っ向から描いてしまった。いや正確にいえばそれしか描くことができなかったし、描く方法もなかった。
おそらくこの映画の作り手は相当量の歴史的なリサーチを積んだのだろうが、それでも近ごろの邦画に見られるサムライをサラリーマンとリンクさせて現代性を描いてしまう妙技などできようはずもない。
日本のサムライ映画が蓄積してきた歴史と経験はアメリカ映画のそれとは天と地以上の差があるのだから当然だ。
だからこの映画はとにかくサムライの哲学、生きざま、武士道、サムライスピリットといった初心者レベルのものをまさに初心者レベルで解きほぐし詰め込んでいくしかなかった。
そして見事にそれに徹した。主観的でなければできない芸当だ。
そして不思議なことにこの映画で描かれた初心者入門レベルのはずのものが実に新鮮に目に映るのだ。
ま、それも当然なのかな。20代そこそこの僕が生まれた時にはすでに初心者入門は終わってたのだから・・・。
ドラマとか映画における忠臣蔵の描き方なんかその典型だろう。いかに生き、いかに死ぬかという人間の根幹がすっかり削ぎ落とされていき、いかに新たなテーマを見出していくか、いかに突飛な視点で描いていくかに心血が注がれる。
そしてついにサラリーマン侍登場!いや、すごく良かったんですけどねあれも。
てなわけで今までサムライ映画は何本も観てきたけど、この映画を観て初めてサムライスピリット、武士道といったものを自分の実感として受け取ることができたと思う。
それはまたオールグレンも同じだったでしょう。
オールグレンの目はまさに僕のような初心者の目、視点でもあったのです。
“潔く死ぬ”、だからこそ“必死に生きる”。死が眼前にある、だからこそ真剣に生きる。
それが生きざま。生と死が隣り合わせの精神状態。
だから霊的な何かをこの映画から感じ取ることができたのか。オールグレンのように。
いやはや舶来ものにそんなありきたりなことを教わってしまうとは、お前はそれでも日本人かぁとわたくしめをどうぞ蔑んでやってください。
しかしまぁ、ハリウッドという名の黒船がやっとのことでサムライ映画という未開の扉をこじ開けることに成功しましたな。
本家日本映画界はこれをどうみるのか。今さら初心者入門に帰れるかよとなるのか、それとも・・・。今後の邦画作品にも注目していきたいです。
とにかく現代の日本が置き忘れてきてしまった遺産を掘り返し、それにより逆に現代の日本と日本人を浮き彫りにまでしたこの映画に僕は拍手と感謝を捧げたいです。
(初記)2003/12/31
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壬生義士伝
出演:中井貴一、三宅祐司、夏川結衣、中谷美紀、塩見三省、伊藤敦史、村田雄浩、堺雅人、佐藤浩市
監督:滝田洋二郎
(2002年・松竹・137分)2002/12/05・岩手県民会館
内容:幕末の京都・壬生。尊皇攘夷の名の下に結成された新撰組にある日、一人の剣士が入隊してくる。その男、盛岡の南部藩を脱藩した北辰一刀流の使い手、吉村貫一郎。彼はみすぼらしい身なりに似合わずこれまでに何人もの人を斬り捨ててきた猛者だった。しかし、大義のためには己の命をも顧みない隊士たちの中にあって、恥ずかしげもなく命に固執し、さらには何かにつけてお金に執着する貫一郎の姿は異彩を放っていた。そんな貫一郎を新撰組で一、二を争う突きの名手、斉藤一は嫌悪するのだが・・・。
評価★★★/60点
近藤勇が口先だけの俗物だったり、沖田総司がヘラヘラしてる三枚目だったり(ゴメン堺雅人w)、一般的なイメージとは異なるキャラクターになっているところは面白かったし、生きるためにとにかく金がいる田舎の出稼ぎ侍・吉村貫一郎と破滅願望を持つニヒルな一匹狼・斉藤一の好対照な取り合わせもなかなか良い。
のだけれど、クライマックスの鳥羽伏見の戦いで官軍の放つ硝煙のただ中に一人突進し消えていく吉村の後ろ姿をまぶたに焼き付けて余韻に浸りたいのに、それからダラダラと事の顛末をたれ流されては余韻もヘッタクレもあったものではない。あざとい泣かせ描写の押し売りに逆に大幅減点・・。
大量出血しながらしゃべくりまくってあんなに粘りに粘ってるんだからw、誰か応急手当くらいしてやれよ!と思ったのは自分だけでしょうか。。
盛岡暮らしの身としてはセリフにも出てくる石割桜とかもっと岩手の風情を描いてほしかったし、長尺のわりには物足りなさが残ったかなぁと。
P.S. 岩手の沢内村出身の女性は美人が多いという謂われがあって、なるほど中谷美紀演じる遊女は適役だった
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