夢のシネマパラダイス194番シアター:ワンス・アンド・フォーエバー
出演:メル・ギブソン、バリー・ペッパー、マデリーン・ストウ、クリス・クライン
監督・脚本:ランダル・ウォレス
(2002年・アメリカ・138分)2002/06/29・MOVIX仙台
評価★★☆/45点
内容:1965年11月。アメリカ陸軍中佐ハル・ムーア率いる部隊は、ベトナムの“X-レイ”地点で2000人以上の北ベトナム兵に取り囲まれた。中佐は、若き兵士達を無事に帰還させるべく果敢に立ち向かっていくが・・・。
“原作者でもあるギャロウェイの言葉。「今までのハリウッド映画は間違っている。ベトナム戦争の真実をねじ曲げている。」だってさ・・・。その割りにこの出来上がりとはちゃんちゃら可笑しくて笑わせてくれるじゃないの。”
ギャロウェイはこの映画の中でこうも言ってたな。
「自分の一族はどの戦争でも戦ってきた。しかし、この戦争は何かが違う。それを理解するためにここに来た。」と。
おい、その何かが違う“何か”を描くことがこの映画の目的だし、それをこそ描くべきことなんじゃないのか?
しかるにこの映画を観てもそんなの全く描かれてないじゃないか。
ただ兵士は必死に敵兵と戦いましたってだけの話だろこれ。。
ギャロウェイは理解できたかどうかは別として(まあ理解できたんやろ)、観てるオイラにはなーんも理解できません。やたらと血しぶきが飛ぶだけの映画としか・・・。
しかも、国家としてのアメリカと一国民としてのアメリカ兵をまったく乖離させる方向に描いていることがこの映画を理解することをますます苦しくさせている。
ラストの方でこういうセリフが出てくる、、、「国の命令で皆戦場へ行ったのだ。お国のために戦ったのではなく、戦友のために戦ったのだ。」
これは要するに、オレたち兵士には一切何の責任も関係もなくて、国に命令されて仕方なくお前ら北ベトナム兵とかべトコンを殺しに任務ではるばるやって来たけど、意外にお前らの抵抗が強くてオレたちの友達がバッタバタとお前らに撃たれて突き刺されて死んでゆく。目の前で友達が死んでいくのは見てられないからその前にお前らをブッ殺すしかない。これはいわば正当防衛なんだ。
、、っていう論理やろ。
そのわりに星条旗を見ながら、「祖国のために死ねるゼ・・・」とキザな捨て台詞を残してアメリカ兵が死ぬシーンもちゃっかり入っているんだよな。
ベトナムにわざわざ介入してきていらない戦争を仕掛けてきた加害者としてのアメリカ、しかしそのアメリカ軍の兵士は被害者ぶってるというとんでもないねじれ現象<注1>。
実はこれとほとんど同じ構造の映画が3ヶ月前に公開されている。
リドリー・スコット監督の「ブラックホーク・ダウン」である。詳しい内容は省くが、ソマリア内戦に介入したアメリカ兵たちの決死の戦闘を事実に基づいて克明に描いた映画で、「ワンス・アンド・フォーエバー」と全く同じようなラストの結論、「俺たち兵士はただ戦友のために戦っているだけだ。」に至る。
しかもこの両作に共通していえるのが、戦闘シーンが映画の大部分を占めているということ。さらに時間や場所など正確な事実に基づいて描いているというのも共通する。
なるほど「今までのハリウッド映画はベトナム戦争の真実をねじ曲げている」というギャロウェイの言葉からすれば、この映画は事実としての戦闘を描いてはいる。
しかし、そこから何を読み取るのだ?何を受け取るのだ?何を読み取ればよいのだ?
誤爆という事実、救援機が逃げ帰ってしまったという事実、何とか事態を打開しようとナパーム弾で山の前面を焼き払った事実、突撃してきた北ベトナム兵士たちを片っ端から撃ち殺す事実、事実、事実、、、、。
ギャロウェイさんよ、あんたの言うベトナム戦争の真実ってこの映画を観たかぎりでは、アメリカの兵士(一応北ベトナムの兵士も)は必死で戦ってましたヨ!ということなのかい!?
劇中、「皆に伝えろ!兵士がどのように戦ったかを!」とギャロウェイが言われるシーンがあったが、アンタそりゃいくら勇猛な兵士でも死にたくないから必死で戦うに決まってんじゃねえかよ(笑)。当たり前だろさ、そんなん。
って当のギャロウェイはこの出来上がった映画をどう評価しているのか知らんけどさ。
少なくとも戦闘の事実の積み重ねが、“この戦争は何かが違う”という“何か”には決して結びついていないことだけは確かだ。
要は真実を描いたからって事の本質には結びつかないということをこの映画にも先の「ブラックホーク・ダウン」に対しても言いたい。
今までのハリウッド映画は間違っているというけど、今までのハリウッド映画こそちゃんとベトナム戦争の本質をえぐってきたという意味では十分評価できると思うんだけど。
はっきりいって今までのハリウッド映画に比べても、この「ワンス・アンド・フォーエバー」は、レベルの低い幼稚な映画ですわな。
この映画の冒頭で、この映画を北ベトナム兵士にも捧げるとこれ見よがしに表示されたけど、まったくの偽善であるばかりかそんなん言われる筋合いもないってとこまでレベルが落ちちゃってる映画だぞこれって。。
そこまでするならラストで、イア・ドラン谷でのアメリカ兵の戦没者名が表示されたけど、北ベトナム兵の戦没者名も表示するくらいの度胸を見せろよな。
事実を事実として描いてみせ、観る者の客観的判断にゆだねるというならば、沖縄の摩文仁の丘みたいに、日本兵の死者もアメリカ兵の死者も碑に刻むというような、そこまでやらないと全くもって意味なしだと思うぞ。
イア・ドラン谷の戦闘をこの映画は悲劇とうたっているが、この数日の戦いならまだしも十数年にわたってかの地で悲劇は続いたわけで、そういう大きい視点でのベトナム戦争という悲劇を描くまでには全く至っていないのは失敗と言うほかない。
<注1>これはたしかにベトナム戦争の真実の1つの側面ではある。ベトナムで身体的にも精神的にも傷を負った兵士たちは、アメリカに帰国したらしたで反戦運動の高まりもあり、世間の見る目は冷たく(「7月4日に生まれて」など)、居場所がどこにもない中、社会復帰もままならない。
ベトナム戦争のもたらした1つの悲劇ではあるし、この映画でも兵士の死亡を知らせる電報がタクシーの運ちゃんによって届けられるというシーンで象徴されているように、アメリカという国家とアメリカ人という国民の間の乖離もベトナム戦争の真実ではある。
しかし、これはあくまでアメリカ国内でしか通用しない話であるはずで。
「この戦争は何かが違う。それを理解するためにここに来た。」とギャロウェイが言うベトナムの地を舞台にした戦場において、そのねじれ現象を描くことは至難の技といってよかろう。
“何かが違う”ということは、矛盾を描き出すことに他ならない。しかし、ベトナムに軍事介入し、何十万というベトナム人を殺したという事実が歴然としてあるわけで。。
非常に分かりやすいくらいに大きすぎるベトナム戦争の真実だ。
その大きすぎる真実を前にして、イア・ドラン谷の戦闘という1つの事実を抽出して克明に描くことがアメリカ軍の矛盾ひいてはベトナム戦争の矛盾を描き出すことにはたしてつながるのか、疑問を禁じえない。
忘れてはならないのは、イア・ドラン谷の戦闘後10年間、ベトナムで戦争は続いたという事実である。
(初記)2002/07/01
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お前戦争に行け。分かるから。
投稿: 俊輔 | 2012年11月27日 (火) 00時09分