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2006年11月 5日 (日)

“泣きながら生きて”

一昨日の金曜日の夜9:00からフジの金曜プレステージで放送された文化庁芸術祭参加作品「泣きながら生きて」を見て、オイラも大いに泣かされた。思わず落涙しちまった・・・。

中国で1960年代~70年代にかけて猛威をふるった文化大革命の中で青春時代を過ごし、辺鄙な農村に下放され勉強したくても勉強できなかった一人の男性。

その名は丁尚彪さん。

文革後は上海に渡り、下放された村で出会った奥さんと一人娘とともに暮らしていたが、彼は勉強もろくにしてこなかったために、文革後の開放政策時代の波に置いていかれ、いわゆる低下層の暮らしから抜け出せずにいた。

このままでは一生ここから抜け出せないと一念発起した丁さんは、日本に渡り、新しく新設されるという日本語学校で学び、日本で働き奥さんと娘を日本に呼び寄せるんだ!と決心し、親戚友人から入学金42万円(夫婦で働いて15年間分の年収)等を借金し、上海に奥さんと娘を残し単身日本に渡った丁さん。時は1989年、丁さん35歳。

が、、、しかし、、、日本に渡ったはいいが、その新設されるという日本語学校は、なななんと北海道はへき地のへき地である阿寒町にあったのだ・・・。(ゴメン。。オイラ思わず笑っちゃったよ・・・)

過疎に苦しむ現状を打開するために、、、、なぜに日本語学校なの???

廃校となった中学校をそのまま日本語学校として開校、、、一応中国人数十人が1期生として入学したが、、、、働きながら学ばなければならない丁さんらにとって、阿寒町にはもともと仕事口が無い・・・ガーーーーン!!

こんなん長続きするわけもなく、数年で破綻したらしいけどね、この日本語学校プロジェクト。。

この前、町が丸ごと破綻した夕張も相当アフォなことやってたらしいけども、この阿寒町のお役人方もとんだことをやらかしたもんだ。ちょっと考えりゃ分かるだろ。。

結局、丁さんは東京へ止むに止まれず脱走。

以来、13年間東京で働きづめの毎日を送った丁さん。

結局日本に来ても自分の人生を変えることができなかった丁さんは、いつしか一人娘の啉さんを大学へ行かせて良い教育を受けさせるという夢を抱くようになる。

ビザも切れ、いわゆる不法滞在者として大都会東京の片隅で生きる丁さんは、給料のほとんどを上海で暮らす奥さんへの仕送りにあてていた。もちろん不法滞在者なわけだから、1回中国に帰ってしまえばもう日本には来られない。だから丁さんは、13年間1度も上海へ戻らなかった。

絶句である。。

奥さんと娘と13年間会わずに、ただ黙々と仕事をする。娘のために、、家族のために。。

たしかに日本で稼いだ方が大きな金額になるのかもしれない。

でも、一つ屋根の下で暮らすのが家族ってもんじゃないのか、、?

昼間は工場で、夜は中華レストランでコック。朝から深夜まで働き、終電も過ぎた都電の線路の上を歩いて小さなボロアパートへ帰り着く。

何がそこまで丁さんを突き動かしてきたのか。。家族とも会わずにただひたすら・・・。

だって帰ろうと思えば帰れるんだもん。愛する家族、小学校の小さい時から会っていない成長した娘の写真を見て涙するくらい、会いたくて会いたくてたまらなくなったら帰っちゃえばいいんだもの。

でも、ただ黙々と働き続ける丁さん。

その姿を、その日常を淡々と見せられ、もうオイラは言葉が出てこなかった。

正直、オイラにはそこまでの精神力はない。。家族を作ったことがないので分からないけど、はっきりいって無理だ。

でも、丁さんの長年の労苦が報われるのが、ラストで丁さんが言う「人生捨てたもんじゃない。」という言葉に集約されていくと思うんだけど、丁さん!アータは凄い!凄い人だ。

アータが日本人の勤労精神を褒めてたから(って今の日本人にそんなんあるのか?)、オイラも褒めてやる。丁さん、アータはホントにマジに凄い人だよ。

娘さんは、なんとニューヨークの有名大学へ留学し、産婦人科医としての一歩を踏み出すことができたのだから。

また、この娘さんの変わりようが凄いのね(笑)。

上海にいた頃は、地味で太めで黒縁メガネかけた典型的中国人の女の子だったのが、アメリカ行ったっけば、ホントまるで“ER”にでも出てきそうな垢抜けて洗練されたアメリカ系中国人とも言える風貌になってるんだもん。痩せてるしさ(笑)。黒縁メガネはコンタクトに代わり、部屋は小奇麗な都会風でパソコン駆使して論文でも書いてたのかな。インタビューでは英語で余裕でペラペラ喋ってるし。

アンタもやっぱ凄いよ。

娘さんがNYへ行く途中に東京に寄り、短時間のトランジットを利用して8年ぶりに再会することができた父と娘。24時間だけの再会。日暮里駅で待ち合わせ、その後ボロアパートに連れて行って一緒に過ごした父と娘。泣けてきた。。。

別れのシーンがこれまたドラマなんだよなぁ。作られたドラマではできない、どんなフィクションもかなわない真のドラマがそこにはあった。

電車で成田へ見送りにいくものの、丁さんは不法滞在者なので、成田で身分証明すると即強制送還されてしまうわけで、成田のひとつ手前の駅で丁さんは降りなければならず、そこで別れるんだよねぇ。娘さん号泣、オイラ嗚咽・・・。

そしてもっと泣けたのが丁さんと奥さんの13年ぶりの東京での再会だ。これまた奥さんがNYに行く途中に東京に寄って夫と再会するんだけど、二人の言葉数がそんな多くないのねこれがまた。でも、しっかりと13年ぶりの再会をかみしめてる二人の姿。

日本でひたすら働き続けた夫の姿、苛酷な人生の労苦が13年分刻まれた夫の、13年前とは変わり果てた夫の姿に涙する奥さん。

そして同じく成田のひとつ手前の駅で別れる。その車中でジッと涙を堪える二人。

別れってなんでこんな苦しいんだろ。人生に別れは付き物だけど。。

ラストは、娘さんが医者になることができたことによって自分の役目は終わったと、上海に戻ることを決めた丁さんが脱走以来訪れていなかった全ての始まり阿寒町へ赴くんだよね。

はっきり言って騙されたようなもんなんだけど、そんなこと口にも出さずしっかり阿寒町に一礼していったっけ。

そしてそこで「やっぱり人生捨てたもんじゃない。」て言うんだ。

そりゃおそらくあのまま中国にいたら、娘さんを留学させることはできなかっただろうし、35歳で日本へ行くという、人生の一大決心を最後までやり抜いたんだもの。

丁さんの言葉は重かった。

そして、中国へ帰っていく丁さん。成田を飛び立つ飛行機の窓の外に見える東京、日本という国との別れ。涙する丁さん。アリガトウ、ニッポン・・・。

まあ、娘さんがアメリカで医者になったわけだから、そりゃ医者だからねえ、1人前になるまでにはまだ時間がかかるだろうけど、たんまり稼ぐやろからな。

今度は娘さんがしっかり恩返しする番だな。丁さんはゆっくりしたらいい。一生分働いたんだから。

人生は苦しい。けど人生は愛おしいんだ。

いいもん見せてもらいました。

嫌われスィーず、ちょっと希望の生きる糧をもらったかな、なんて。

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