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2006年7月 4日 (火)

世界のNAKATA:中田ヒデのいない世界

一瞬我が目と耳を疑った・・・。中田ヒデ代表引退ならぬ現役引退

これが自分にとって最後(のW杯)になる、とは以前から言っていたので、あるとしたら代表引退かなと思っていた。そしたら一足飛びに現役引退と来たもんだ・・・。

29歳、次のW杯時に33歳。

1番選手として脂ののっている29歳という時期での現役引退というのはホントに「惜しい」の一言だろう。。

ジダン34歳、フィーゴ33歳、ベッカム31歳、ラーション34歳、アジャラ33歳、コク35歳、デルピエロ31歳、ネドべド33歳、カフー36歳・・・etc.

今大会チームの軸となる選手に30代が多いのはひとつの特徴だと思うが、ヒデの場合次のW杯に臨めるポテンシャルは十分すぎるほどあるのだ。日本代表にとって、日本サッカーにとって大きな損失となることは確かだ。

さらに、オイラとしてはそれよりもこれから海外サッカーにおいて日本の中田、世界のNAKATAの勇躍が見られなくなるのが悲しくて悲しくて仕方がない。

中田のペルージャでの活躍があってこそオイラの欧州サッカー観戦が始まったようなものなので、中田のヨーロッパでの足跡というのはホントに大きな影響を与えてくれたんです。

また振り返ってみれば、ヒデのステップアップと日本サッカーの右肩上がりの成長とが重ねあう視点をリアルタイムに見て感じられたことはオイラにとって凄い体験だったと思うし、ヒデと大体同じ年代だったこともあって共感と同感の度合いは他の世代よりも大きかったと自負しているし。これはたぶんヒデ世代の人たちは分かると思うんだけどね。

95Wユースではベスト8の偉業を達成。ここからユース世代の世界での活躍が始まったと言ってもよく、この4年後にWユースで小野ら黄金世代が準優勝を遂げたのは記憶に新しい。

96アトランタオリンピックではマイアミの奇跡でブラジルを撃破。このときは前園が確固としたキャプテンシーを発揮して日本を引っ張ったが、ヒデはまだ19歳だった。ちなみにこのブラジル戦では先発出場し、獅子奮迅の動きを見せその挙句後半にGKジダと接触して左膝を打撲、その後にジュニーニョと接触し左ひじを打撲し名誉の負傷退場となった。

97年、フランスW杯アジア1次予選中の親善試合韓国戦で代表デビュー。その後1次予選から背番号8を背負い司令塔として日本を引っ張っていく存在に一気に駆け上がっていく。97年11月16日のジョホールバルの歓喜では3得点全てに絡む活躍を見せる。

この頃からすでにイタリア風ファッションに身を包み、97年の年末に行われた世界選抜×欧州選抜エキシビジョンマッチで世界選抜メンバーに選ばれるなど既に世界のNAKATAの礎は着々と築かれ認知されつつあった。

それが結実したのが98フランスW杯。

髪を金髪に染め世界にアピールし、中盤で孤軍奮闘するも日本は全敗。と同時に世界の壁を思い知ったヒデと日本。

そしてW杯終了後の7月、イタリアペルージャへの移籍が決定!当地では「日本のスポンサーのおかげで中田はペルージャに来ることができた」などの揶揄を受けたが、デビュー戦ユーべ戦でいきなりの2ゴール!結局このシーズンは33試合出場10得点の大活躍をみせ、文字通り世界のNAKATAが誕生した。

翌シーズン途中ローマに移籍。ローマの王子トッティとポジションが重なるため厳しい戦いが続いたが、00-01シーズンのローマ優勝に大事な場面で度重なる貢献を果たす。

同じ2000年にはシドニーオリンピックで見事ベスト8進出。しかし決勝T1回戦対アメリカ戦2-2のまま延長、PK戦までもつれ込む大熱戦。そのPK戦4人目のキッカーだったヒデがポスト直撃でゴールに嫌われ惜しくも敗戦となってしまった。

01-02から03-04途中まではパルマで背番号10番を付けてプレー。当時駆け出しのアドリアーノやジラルディーノと一緒にプレー。チームの主軸としてチームを牽引する。

その間代表では01年のサンドニの悲劇でフランスに0-5という大敗、コンフェデでは決勝に進むも同じくフランスに0-1の惜敗を喫する。また、この頃からトルシエとの確執が表面に出てくるようになる。

しかし、02年日韓W杯ではノルマだったベスト16進出を果たし、ヒデはその原動力となる。

02年10月ジーコJAPANの船出。「黄金の中盤」の一員としてヒデが舵取りを任される。

03年は6月キリンカップでアルゼンチンに大敗、続くフランスコンフェデ杯で1次リーグ敗退、10月の欧州遠征では1勝1分けの成績を残すが、この頃から選手の自主性を重んじるジーコの代弁者&体現者となる役割を担い、チーム全体が中田依存症になっていくのと同時に他の選手たちとの間から浮いた存在となっていく・・・。ヒデの苦言がクローズアップされるのもこの頃から。

04年激闘のアジア杯には不出場もW杯アジア1次予選には精力的に欧州から駆けつけ、無事突破。

05年アジア最終予選突破、続くドイツコンフェデ杯では惜しくも1次リーグ敗退。

クラブレベルでは、03-04からボローニャ、フィオレンティーナ、ボルトンと渡り歩くもなかなかチームの求める戦術サッカーとヒデの志向するサッカーとが合わずに厳しい闘いが続いていた。

そしてドイツW杯。。。

長かったようで一気に世界を駆け抜けた中田英寿。オイラもいろいろな記憶が駆け巡ってしまうよ。

ホントにお疲れ様でした。

まだ書き足りないけど、、一応今日はここで止めとく。。。グスン・・。

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