夢のシネマパラダイス412番シアター:21g&バベル
21g〔21グラム〕
出演:ショーン・ペン、ナオミ・ワッツ、ベニチオ・デル・トロ、シャルロット・ゲンズブール
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
脚本:ギジェルモ・アリアガ
(2003年・アメリカ・124分)2004/06/05・仙台セントラル劇場
評価★★★★/75点
内容:交通事故で夫と2人の娘を失ったクリスティーナ(ナオミ・ワッツ)、その心臓を移植された重い心臓病を患う数学者ポール(ペン)、そして事故を起こした男ジャック(デル・トロ)。無関係だった3人の人生は、哀しく絡み合っていく・・・。人は死ぬ時、21グラムだけ体重が軽くなる。それは肉体から離れた魂。その重さが21グラムなのだという。。。
“よく出来ているが、映画としてのレトリックに乗せられたorダマされた感も否めず。”
夢枕漠がこんなことを言っていた。
シリアスとユーモアは表裏一体で、シリアスを描ききるにはその対比としてユーモアも提示しなければならない、と。
個人的には十分うなずける考え方で、シリアスにかぎらずホラーやスプラッターのすぐ隣にも笑いやコメディがあるものだと思っている。
しかし、この映画においては、この映画にユーモアがあればと思う余裕がないほど、観ているこっちが自棄のやんぱちになっちゃうみたいな。それほどのシリアスさだったわけで。。
自分としては時間軸をずらしてパズルのように嵌め込んでいくという構成は、ポール、クリスティーナ、ジャックの3人それぞれの人生のしがらみを描く上では効果的だったと思うし、そのしがらみが終盤ひとつの大きな塊になっていくカタストロフィーはまさに映画的だと感じた。
がしかし、その一方で、より合わさっていく彼ら3人の人生のしがらみから何を得るのかというのが非常に曖昧で、彼らがただヤケクソになっちゃうのもいかがなもんだろうと・・・。意味ないよね。それでも人生は続いていくってか。
彼ら3人にまるでドラクエでいうところの鋼鉄と化して敵の攻撃を寄せつけないかわりに自分も身動きがとれなくなってしまう、そんな呪文のごとく三者三様に投げかけられる「神様に関係なく人生は続いていくの」という言葉。
この言葉はこの映画で1番のキーワードであると思うのだけど、さっきの呪文の話じゃないけどもホント彼らを追い詰めていく、がんじがらめに縛り上げる言葉になってしまっている気がしてならないわけ。
それは“人生は続いていく”という言葉と対になるはずの“人間は一人では生きてはいけない”という肝心のことが省かれている、あるいは描かれていないということが大きいと思うんだよね。
その点でみれば、自分にとってのこの映画の主人公はポールでもクリスティーナでもジャックでもない。
意地でも前へ進もうとする執念と、家族を作り守るという平凡な生活に対する希望と光を纏っている姿から人間味、人間臭さがより感じられるという意味で、ポールの恋人セルジュ・ゲンズブール、そしてジャックの奥さんこそが自分にとってのこの映画の主人公だ。
ただいかんせんほとんど端折られちゃってるんだけどさ・・・。
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バベル
出演:ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット、ガエル・ガルシア・ベルナル、役所広司、菊地凛子、アドリアナ・バラーザ
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
脚本:ギジェルモ・アリアガ
(2006年・アメリカ・143分)2007/05/15・盛岡フォーラム
評価:★★/40点
内容:モロッコ。山羊飼いのアブドゥラは知り合いから一丁のライフルを買い、それを山羊に近づくジャッカルを追い払うためとして子供たち兄弟に与える。が、彼らが遊び半分でツアーバスに向けて撃った銃弾が、そのバスに乗り合わせていたアメリカ人夫妻の妻スーザンの肩を直撃してしまう。一方、夫妻がアメリカに残してきた2人の幼い子供の面倒をみるメキシコ人の家政婦アメリアは息子の結婚式に出るためにメキシコに帰郷する予定だったが、リチャードからの突然の報せで夫妻が戻ってこないと知り、仕方なく2人を連れてメキシコへと向かう。そんな中、モロッコの事件で使用されたライフルの所有者が東京にいる日本人ヤスジローだということが分かる・・・。
“THE 痴女!”
この題名でエエわ、もう(笑)。
正直、全く理解不能な映画だった。
人間たちの傲慢さに怒った神が、もともとひとつだった人間の言葉をバラバラにして世界をかき乱したという、旧約聖書に記されたバベルの塔から来ている題名からしても、現代のグローバリズム世界の中でますます顕著になっているコミュニケーションの断絶をテーマにしていることには違いない。
それは、英語とアラビア語という言語の違い、アメリカ人とモロッコ人、アメリカ人とメキシコ人という人種・国籍の違い、さらには夫婦間の断絶、親子間の断絶と、言葉が通じても理解し合えない人間関係にまで至るものであり、これらのディスコミュニケーションの壁を現代社会の不毛に反映させて徹頭徹尾描いている、、ように見える。。
そして、その不毛の象徴として描かれているのが、高層ビル群が立ち並ぶ東京バビロニアニッポンであり、コミュニケーションの断絶の壁の象徴として描かれているのが、聾唖の女子高生チエコ(菊地凛子)なのだろう、、と思われる。
が、しかしである。
一丁のライフル、一発の銃弾が国境という壁を越えて引き起こしていく混沌と喪失、そして相互不理解の連鎖。が、しかし、それら各々の物語はつながっているようでいてその実、まるで映画の世界に入り込むことを拒絶するかのように断絶しまくっているのだ。
まるで神の視点に立ったかのようにそれぞれのエピソードの時制をバラバラにすることで、相互不理解という壁を映画の構造の中にまで持ち込んだのかは知らんが、全く映画の中に入り込んでいくことができないもどかしさどころか、それぞれのエピソードに説得力を感じられず、理解に至ることさえできない144分間はもはや絶望と苦痛だけでしかない。
ましてやその中で勝手に股をおっ広げられたり素っ裸になられても、残るのは嫌悪感だけ。
にしてもホントにあのチエコの行動原理は理解に苦しむ。痴女そのものだよあれは(笑)。
おそらく、この映画の意図するところは、9.11後の混沌とした世界におけるディスコミュニケーションの縮図をいわば絶望形で提示したものだと思うのだけど。
その中で現代のバベルの塔ともいえる摩天楼を見下ろす所のベランダで、素っ裸でたたずむチエコが父親と抱き合うラストというのも、服を脱ぎ去ることで、言語によって生み出されるズレを超越したようなありのままの人間に戻るという意味があったのだろうとは容易に想像がつく。
しかし、映画自体がコミュニケーションを拒絶しているような中で、そんなん見せられても全く心に響いてくるものがない。
その点では、より日常の中に視点を下ろしていく「クラッシュ」の方が分かりやすいし、出来も1枚も2枚もうわ手だったと思う。
それに比べるとやはり視点が中空に漂っているような始末の悪さばかりが気になって仕方なかった本作は、例え2回観たとしても自分の印象が覆ることはない映画だと思う。






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